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鯖がぐうと鳴いた 短編

※これは2011年7月に、桶田敬太郎くんと一緒に、片瀬漁港から鯖釣りにいった出来事をモデルとした小説です。

鯖がぐうと鳴いた                萩原正人

 再会

 江ノ島の右肩に白い月。
 そこへ突進するように慶太がハンドルを切った。片瀬東浜と西浜の隙間をぬって、弁天橋の袂にもぐりこむ。
 船宿が軒を並べていた。看板には、片瀬漁港と達筆な文字。右手は魚市場だ。定置網によって水揚げされた魚が、ここで直販されている。
 ここには、私の知らない夏と江ノ島があった。

 漁港の朝は、前のめりに動き出していた。
 船宿にたむろする釣客は、リールの感触を語り合い、空の色を見ては、今日の釣果を噂している。
 いずれにせ、ここに寄せ集まるどの顔も、真夏の湘南を我が物顔で闊歩する、あの誇示するほどに日焼けをした、若者達とは人種が違う。

 慶太に、「江ノ島で釣りをしませんか」と、誘われた。
 江ノ島と釣りのイメージが結びつかなかった。まさか江ノ島に漁港があったとは驚いた。
「ちょっと待っていてくださいね」
 エンジンキーをかけたまま慶太が車外に出た。潮の香りが助手席に流れ込んでくる。
 一睡もしていなかった。深夜三時に、慶太が三鷹のアパートまで迎えに来てくれるという。ちょっと仮眠をとろうと布団にもぐりこんだのだが、緊張して眠ることができなかった。なにしろ二〇数年ぶりの再会だ。

 眠気覚ましに、助手席で背伸びをした。
 朝と潮を大きく吸い込んだ。潮の匂いを感じながら、フロントガラス越しに、釣り人の輪に加わる慶太の姿を見つめた。目深にアメリカンキャップをかぶり、偏光サングラスをかけている。そして、さりげなくマリンベストを重ね着した健康的な姿は、どこからどこを切り取っても、釣り人のそれだ。

 慶太は若い頃から色白のイケメンだった。それは相変わらずで、腰のあたりに少しばかり肉がついただろうか。ただ、それは年輪を重ねた男の貫禄といえる範囲で、嫌みのない程度に日焼けした肌は、あの頃と比べれば、よほど健康そうだ。

 慶太は後輩芸人だった。記憶の底にある彼は静かな青年だった。
 お笑いライブのエンディングでも、人を押しのけてまで目立とうとはしない。それでも、ボソリと人を喰ったことをいう。
 楽屋でもそうだ。彼の人柄に触れようとしても、慶太は繊細な棘をチクチクさせながら、楽屋の隅でかしこまっている。
 だから、芸人時代に彼と話したことがない。
 
 九〇年代のお笑いライブの楽屋はヒリついていた。ピリピリしていた。たった数年の芸歴の差ではあるが、慶太にとって、わたしは距離を感じる先輩だったのかも知れない。
 芸人はみんな「成功行」のバス停にいる。行儀よく並びはしない。後から来たものが、先頭に並ぶものを押しのけて、バスに乗る。
 慶太たちも、それに乗った。
 勝ち抜き番組のチャンピオンになった。テレビのレギュラー番組がいつくも決まった。そして、その人気に火がついたとき、何を思ったのか、いともあっさりとコンビを解散した。そして、慶太はお笑いから身を引いた。  
 私といえば、つぼみのまま腐ったと揶揄されながらも、かろうじて芸人を続けていたが、四十歳を前にしてコンビを解消した。

 慶太がこちらを見て、大きく手を振っている。
「マキさん、これ書いてください」
 釣宿の女将が軒をあけ、居並ぶ釣客に伝票を配っていた。
 気のはやる釣客は、住所氏名に連絡先を記入する。
「そこのLTルアーのところに丸をつけて、それと乗船料は五千円です」
「慶太くん、お釣りはガソリン代で」
 私は慶太に一万円を手渡した。
「ガソリン代なんていいですよ。今回は俺が誘ったんだし。次回からってことで」
 さすがに四十歳の坂を超えている。先輩としての見栄もある。ただ、訳あって、五千円にすら汲々とする日々を送っていた。
「なんだか迎えにまえ来てもらったのに、悪いね」と、素直に彼の好意に甘える。
 慶太は屈託のない笑顔で「気にしないでください」と、首をすくめてみせた。
「そういや、釣り具は無料でレンタルできるっていってたけど、どこで申し込めばいいの」
「いいですよ、俺のを使ってもらえば。釣り味のいい、バッチリ釣れる竿持ってきましたから」
「何から何まで助かるよ。ところで、その、釣り味って、なに?」
「竿によって釣り味が違うんですよ。竿のしなり具合、手応えの違いかな。俺なんて釣り味の違う竿を二本持ってきてます」
 慶太がかけっぱなしのエンジンにアクセルを入れた。
 生まれて初めてともいえる釣りだ。しかも、船に乗っての沖釣りである。ただ──心に余裕がないから、興奮を手元にまで引き寄せられない。

 先月末でアルバイトを首になっていた。
 表向きは、カラッとした表情で慶太と向き合っているが、明日に続く生活を考えると、不安が喉元まで込み上げる。
 正確にいえば、三ヶ月ごとに更新されるアルバイトの契約書には印をついたのだ。
 ただ、来月からは一週間に一度しかシフトに入れないという。これまで関わってきた業務が廃止され、その後の行き場所が決まらなかった。
 もっと早くに手を打っておくべきだったのだろう。楽観主義ではないが、考えれば不安が押し寄せるから、なんとかなるさと高をくくっていた。
 なんとかなるときは、なんとかなるが、なんとかならないときは、いともあっけない。
 上司との面談で言外に、「あなたは必要ない」との意思を明確に感じた。確かに、私の体調面を考えれば、雇用主は一考せざるを得まい。誰にでもできるような仕事なのだ。
 もっと健康で、元気ハツラツで、素直で、真面目に働く若者が、安い時給で雇えるのだ。
「これって、体のいいクビですよね?」
「もっと、前向きに考えられませんか。こちらは契約を続けるといっているんです」
「でも、週に一度しかシフトに入れないんじゃ、意味ありませんよ。笑える。アルバイトで飼い殺しにあうとは思ってもねぇし……」
 こんな言いぐさが、彼の癇に障ることは百も承知だ。
 しかし、好戦的な気分になっていた。
「巻田さん、もっと冷静に話し合いましょう」
 やっぱりこいつカッとしたかと、心の中でほくそ笑む。
「こちらは冷静ですが。来週には月が変わるのに唐突ですよね。俺が退社するといったら、会社都合ですよね?」
「自己都合です」
 気がつけば、長机を叩いていた。
「おかしいでしょ。だって、来月から仕事がないんでしょう」
「こちらとしては契約する意思がありますから」
「うまいやり口だな」
 聞こえるように独り言をいってやった。利口じゃない態度であることは百も承知だ。
「巻田さん、これじゃ話し合いになりませんから、後日、もう一度話し合いましょう」
 
 芸人を始めた頃は、バブル景気の最盛期だった。
 日ごとにアルバイトニュースは分厚くなり、面談のアポを取るため、電話ボックスに駆け込めば、
「履歴書なんていいから、いますぐ来て!」と、まさに売り手市場だった。
 この調子であれば、お笑い芸人として売れなくても東京にいれば、食いっぱぐれる事はないと思った。
 二〇数年前のあの日だ。
 幡ヶ谷の六号通り商店街にある公園のベンチに座って、私は楽観の吐息をついた。
 それがこのざまだ。
 いまとなっては、こちらのスケジュールに都合をつけるためのアルバイトでありながら、緊急の仕事が入れば、露骨に嫌な顔をされる。
 青臭いと思われていたなら心外だ。夢を追っているわけじゃない。あらゆる夢なら見尽くした。

 慶太が車を埠頭の突端に乗り入れる。
 車止めを越えれば、もうそこは海だ。
「ここは、海っぺりまで車を乗り入れられるんで、楽なんですよ」
 四〇リットルのクーラーボックスは腰にくる重さだ。それを二台と、釣竿を三本を積み下ろす。
「どんだけ釣るつもりなんだよ」
「クーラーボックスの謎は、後でとけますから」
 慶太が、小脇に抱える大きさの、黒いケースを観音開きにあけた。小魚を擬したルアーが、色取り取りに並んでいた。
「マキさん、どれにします」
 しばし、鯖の気分になって、一番美味しそうなルアーを選ぶ。
「これで釣れるか、釣れないかはマキさん次第になったわけですからね。釣れなくても文句いわないでくださいよ」
 そういって、優しげに慶太が笑う。

 出航を待つ間に、慶太からルアーの手解きを受けた。
「手首を使って、しゃくって、一巻き。しゃくって、一巻き。
 そうそう、そんな感じで、しゃくって、一巻き。しゃくって、一巻き。
 そうすると、鯖がルアーに食いつきますから、当たりを感じたら、それに合わせて、ロッドを立てる。
 針に鯖をひっかけるイメージですね。こう、ガシッと合わせる。しっかり食いつかせる」
 埠頭の先に立ち、リールを垂らしては、しゃくって巻いた。それを幾度か繰り返していると、慶太が埠頭から身を乗り出し、私の釣り糸をがっちり掴んだ。思いっきり引っ張る。私は、慌てて腰に重心を落とし、
「おい、落ちるって」と、苦笑した。
「はやく、リール巻いて! 鯖が食いつきましたよ。はやく、リール巻いて」と、本気なのか、冗談なのか……。
「ちょっと待って! だって……、強すぎて巻けないよ」
「鯖の引きは、これくらいすごいですから」
 サングラスに隠れて表情は読み取れないが、その声音は、陽気で楽しそうだ。
「う、うそ! 鯖って、こんな力あるの!」
「やばいくらいに、すごいです」
 私はなんとかリールを巻き上げて、本日の一匹目、慶太の拳を釣り上げた。

 朝六時を待って出航。
 とも綱を切った船長が、運転席に腰をかけながら慶太に話しかける。
「友達かい?」
「ええ、まあ」
 慶太がニヤリと笑って、曖昧な相槌をうっている。私はおかしくて、沖に霞む富士山に微笑みを投げていた。
「慶太は釣り好きだけど、それ以上に釣らせ好きだからなあ」
「あははは」
 マイクスタンドから世を拗ねた青年が、いまや太平洋を前にして、なんの屈託もない。
(ぼくら、今日初めてまともに口を聞いた仲なんですよ)
 そう話しかけたら、船長はどんな顔をするのだろうか。

 復活

 鎌田氏のアパートは東八通りを脇に入った路地にあって、どの最寄り駅からも、そこそこに歩く。
 東南系の掘り深い顔に笑みを浮かべ、額に汗を玉としながら、「まった~」とかいいながら、鎌田氏が陽気に颯爽と自転車で迎えにきてくれた。相も変わらず派手な柄物シャツを翻している。
 下北沢の高級マンションから、彼が畑に囲まれた三鷹の片隅に引っ込んで、それから始めての来訪だった。しばらく疎遠にしていたのだ。
 それがここ数カ月、週に一度はファミレスのプレミアムカフェで、大の大人が酒気もなく、コーヒーカップを弄んでいる。そしてたっぷり、数時間は粘るのだ。
 鎌田氏が自転車を押して転がす。
 狭い歩道に二人の肩が縦になったり、横になったりして並ぶ。小出しに驚かせようと企んでいたはずが、私は我慢ができずに、この日のトップニュースを、道すがらに語り始めてしまった。
「すごいんだ。こんど釣りに行くんだよ」
「珍しいね。なに、どこ、釣り堀?」
「舐めてもらっちゃ困るよ。夏の釣りといえば、海でしょう」
「おかっぱり?」
「う、うん、……なにそれ」
「堤防とか、岸からの海釣りだよ」
「ああ、陸ってことね。違うよ、俺もよくわかってないんだけど、どうやら、船に乗って釣るらしい」
「釣りなんて、やったことあるの?」
「まったくない。そもそも、生きた魚が、気持ち悪くて掴めない」
「おいおい、そんなことで平気かよ」
 鎌田氏が呆れて笑う。

 苦笑されても否定できないほど、私の釣り歴は悲惨だ。
 石神井公園では、落ちていたテグスの先に、つまみのサキイカを括り付けて池に放り投げた。
 ナマズが釣れた。
 その異形に驚いてテグスを投げ捨てた。
 秋川渓谷に家族で遊びにいった。
 息子が、小岩からの飛び込みを飽きもせずに繰り返していた。暇な私は売店で釣竿を借りて、岩陰の隅で釣り糸を垂らした。
 このときもナマズが釣れた。
 さすがに、釣竿を投げ捨てるわけにもいかず、
「釣れたァ〜。釣れちゃったよォ〜」
 と、馬鹿げた嬌声をあげる。
 まだ離婚をする前で、傍らには甘えられる妻がいた。彼女は私に一瞥を投げ、冷静にナマズの針を外してくれた。
 息子は父の一大事と駆けつけたが、「釣れたョ! 釣れちゃったョ!」と、ただ騒ぐばかりの私を見て、悲しい顔で突っ立っていた。
 記憶にある私の釣り歴は、この二つだけだ。

「それで、誰と釣りに行くの?」
「これがまた驚きでさ、──慶太くん」
そう言って、鎌田氏の表情を盗み見る。濃く塗り込めたへの字眉が、微妙につり上がっている。
「付き合いなんて、ないだろ?」
「口を利いたことすら、一切ない」
 私と慶太の接点は舞台上にしかなかった。それも、お笑いライブのエンディングのみだ。打ち上げでの隣席すら記憶になかった。
 鎌田氏は番組での共演もあって、慶太とは親しくしていたが、私と慶太を結びつける糸が見つけられず驚いていた。
「すごい組み合わせだ。すごいね、なんで今更、二人して釣りになんていくんだよ」
「フェイスブックってあるじゃん。あれさ、友達の友達って、『知り合いかも?』って、画面にでてくんだよ」
「それってツイッターみたいなもの?」
「いや、ミクシィみたいなもの。そりゃ知り合いだけどさ、現役時代、一言も口利いたことがないんだぜ、お節介だよな」
「慶太はいい奴だけどね」
「鎌田くんから噂は耳にしてたし、それで親近感あったから、メッセージを送ってみたんだよ」
「そしたら、なんだって?」
「うん……、海釣りが決定したよ」
「あはは。あいつ、釣りが好きだからな」
「ねえ、一緒に行こうよ」
「いつ」
「来週の日曜」
「その日、イベントの営業が入っちゃってるわ。でも、それは、行きたかったなあ」

 鎌田氏がお笑いの世界に帰ってきたのは一年前だ。
 それなりのテレビ出演と収入がありながら、その一切を断ち切って音楽の道へ進むと宣言した。あれから十年が経っていた。
「音楽もお笑いも並行すればいい」と、誰もが口をそろえた。
 しかし、彼の決心は頑なで、一切のネタを封印するという。私は、年収数千万の稼ぎ口を、いとも簡単に放棄する友人が信じられなかった。
 その後、どういった心境の変化があってか、お笑いの世界に帰ってきた。
「貯金が底をついたからさ」
 私の前ではおどけた口調であるが、十年振りに開催する単独ライブのタイトルが、『やっぱり、お笑いが好きみたい』だと聞いて、あの頑固さを考えれば、そうあっさり言いきれるまでの紆余曲折の心境を、友人として慮るのだ。

「バイトどうした?」
「探してるけど、この年になるとなかなかね。それに身体のこともあるし、障害者雇用枠での求人サービスにも登録したよ」
「そんなのがあるんだ」
「ある程度の規模の会社だと、障害者を雇用する義務があるんだよ。
 そこを狙うにしても、求人は正社員ばっかりだしさ。あいつら人の足元みやがって、高校生のアルバイトみたいな時給を提示してくるだもん、まいったよ」

 鎌田氏がギター漫談で売れ出して、それなりに小金を稼ぎだすと、その金にたかって私は毎晩のように飲み歩いた。いまとなってはあの頃の無謀な生活は影をひそめ、あまりに地味で救いのない会話をしている。

 鎌田氏も返答に窮し、走る車もない横断歩道に立って、歩行者用信号の赤を凝視している。私は、その間を取り繕うようにして、
「まいっちゃうのは履歴書だよ。もうほとんど白紙。なんとか空欄を埋めようと、元お笑い芸人で、肝硬変の末期から海外渡航で肝臓と腎臓の同時移植をした経歴まで書いちゃった」
「いいじゃん。面白い経歴だから、目立つんじゃない」
「受けるね。うん、受ける。確かに面接は盛り上がる。でもさ、いざ採用を決める段になると、だからなに?って感じじゃん。それより健康に不安ありってなっちゃう」
「確かに」
「免許も資格も一切なし。履歴書なんて書かないほうがいいよ。自分自身の無能さを再確認するだけだから」
「釣りにいって気分転換してくるんだね」
「まあね。でも、遊んでると不安になんだよ。昔はへっちゃらだったんだけどなあ。無一文で現場にいって、マネージャーに五百円借りて帰ってくるんだもん」
「いまの若い子も大変らしいよ。俺だってこのあいだ引っ越しのバイトいったよ。日払いのやつ」
「バイトなんて何年ぶり?」
「二十年とかかなあ」
「お互い、もうすぐ五十歳だぜ」
「いいねえ。これからだよ」
「芸人だった頃はさ、どんな不幸だって変換キーがあったんだよ。オレが肝臓移植で渡米して、突然、腎臓移植が決まったろ。もちろん、すごいショックだったけど、心の隅でガッツポーズしてたもんな。すごいネタだって」
 すれ違うカップルに、縦に並んで道を譲る。牟礼の里公園の夏緑林が、二人の足元に涼しげな影をつくっていた。背後から密やかな話声が聞こえた。
「あの人、お笑いの人、ほら、誰だっけ」と、鎌田氏に気付いた様子だ。ただ、名前がでてこない。
「アメミヤと間違えてるんじゃねぇか」
 彼の自虐に、私が笑う。
「俺からすりゃ、いまだってマキちゃんは芸人だけどね」
 そういってくれる鎌田氏の思いやりに、今度は私が口籠る。

 ★

 慶太とは海まで、車内で二人きりだった。
 私たちが共有した時間は、たかが一瞬で、はるか遠くに過ぎ去った過去の思い出でしかない。何を語り、どのように時間の隙間を埋めればいいのか……、慶太のシャイで打解けない横顔が、脳裏に浮かぶ。
 ところが心配は杞憂だった。
 たった一瞬とはいえ、二人の共有した時間は濃密だったのだ。
「あの頃は、みんなピリピリしてましたよね」と、慶太がいう。「あの緊張感は、いま思いだしてもゾクゾクしますよ。でも、それも楽しかったなあ」
 ぼくらは子供だった。とどのつまりそれだ。私は当時二十三歳で、慶太は、まだ二十歳だったのだ。
「ぼくら、メチャクチャ若かったですから、ズケズケと社交なんてできなかったですよ。なんで、もっとはやく、こんな話ができなかったんでしょうね」
 私が四十四歳とすれば、慶太も四十歳を超えている。当時はなんにでも斜に構え、素直に語れなかった思いも、今なら照れずに話すことができる。
 破れた心の隙間から溢れでた言葉が、二人の時間と距離を埋めてくれた。

 漁船は鳥山を追った。
 魚群探知機で群れの真下に船をつける。江ノ島は、もはや遥か彼方に霞み、突然の闖入者に驚いた海鳥が、音もなく四方へ飛び散った。
「はい、いいよ」
 船長の合図で、釣人が一斉に竿を垂らした。途端、そちこちの竿がしなる。慶太のロッドも、つの字になった。
 とりあえず見てるよ。と、私は傍観を決め込んでいた。
「小魚の群れを、鯖と海鳥が追いかけっこしてるんですよ」
 慶太のロットがしなる。
 確かに、鯖の引きは強かった。今にも竿が折れそうなほどにしなっている。慶太が腹にリールを抱え込んで、捻じり込むようにハンドルを回す。
「でも、人間には魚群探知機がありますから」
 逃げる鯖が黒くうねった波頭をテグスで切断する。
 右へ、左へ。
「俺達、魚群の真下にきて疑似餌まいてるんですから。ほんと、やだなあ人間って。ずるいよなあ。生態系を無視して、横からガツンと鯖をいただいちゃうんだから」
 ロッドの穂先、海面に鯖の魚影が見えてきた。ここからは、あっという間だった。
 頭上高く、灰褐色の斑点が陽を浴びて煌めき、慶太は船腹に身を乗り出して、針を胸元まで手繰り寄せた。
 尾ひれをはためかせ、江ノ島の空で鯖が暴れる。
「なかなかいい型じゃないですか」
 慶太が鯖の背を指に撫で、「この斑点がゴマ鯖」とひとりごちて、鯖のエラ下を鷲掴みにする。
 ぐう。
 鯖が鳴いた。
「えっ、いま、鯖が鳴いたよ」
「魚に声帯ってあったかな」
 慶太が笑いながら、鯖の口から、ペンチで針を外す。
 私はすっかり嬉しくなってしまった。
「ぐうの音もでないって、このことなんだ。鯖がぐうと鳴いてから、ぴくりとも動かないよ」
 慶太は鋏を持ち出して、鯖のエラに鋏を入れる。血しぶきが跳ね、鯖を握った慶太の前腕が、真っ赤な血に濡れる。
「ちょ、ちょ、ちょ。なにしてんの、それ……」
「血抜きですよ。これが新鮮さの秘訣で、血抜きをするしないじゃ、生臭さが断然違いますから。鯖の刺身って食ったことあります? びっくりするぐらい美味いですよ。釣りたてじゃなきゃ、鯖の刺身なんて食えませんから。これは是非とも、試してください」
 あらかじめ海水を満たした、一方のクーラーボックスに、慶太が鯖を滑り込ませる。もはや、ぐうの音も出ない様子だった鯖が、エラから血を流し、威勢よく泳ぎ始めた。
 海水が血で汚れる。
 見れば、私のシャツにも飛び散った血が、赤く滲んでいた。
 人工透析を導入してから二年が経っていた。透析の間中、黙々と血を見てきた。たかが鯖の血ごときに腰が引けるとは、我ながら滑稽すぎる。
「クーラーボックスをなぜ二台持ってきたか、ジャジャーン! その謎がこれです。いっこは血抜き専用の秘密兵器。美味しく食べてあげなくちゃ、鯖がかわいそうでしょう」
 いま鯖を放したばかりの血抜き用クーラーボックスに、慶太が手をつっこんで、腕の血を洗い落とす。いちおう、洗ってはいるが、そこには微塵の清潔さもない。そもそも海水は鯖の血で汚れているのだ。
 私もベッドに縛られて四時間、血抜きされている。
 静脈に穿刺した針は、音もなく静脈を吸い上げ、ダイアライザーという、擬似的な腎臓で血液を浄化する。その間、私は読書をしたり、スマートフォンを触ったり、暇をつぶす。
 慶太との邂逅もベッドの上だった。
――海はいいですよ。何かが、バーッと開きます!
 慶太とのいくつかのやり取りをした。視界の片隅には、黙々と血が流れていた。そして気がつけば、自分らしくもない海釣りへの同行を決めていた。
 アルバイトの面接では、当然ながらこちらの事情もあかす。週三日、四時間の透析についてだ。皆一様に、「大変ですね」と慈悲の情を示す。だったら採用しろと思うが、それは身勝手な理屈だろう。
 ただ、心密かに叫びたいことがある。大変なんかじゃないってことだ。私の日常が、大変だとでもいうのか……。
 病室のあちらこちらに血が流れている。
 送血管に流れる血液は、生命と深い関わりがあるとは到底思えないほど、静かであっけない。
 この鉄柱を這い上がる葡萄色の葉脈。これが私の命脈かと思えば心細くもなるし、クリニックの金脈かと思えば皮肉な笑みも浮かぶ。いずれにせよ、社会福祉の恩恵に預かって、大の大人が、この血に縛られてぐうの音もでないのだ。
 それでも、これが私の日常だ。この社会が転覆しない限り、おぼろげながらも明日があるのだ。
 面倒だとか嫌だとか、覚悟する暇も選択肢もなかった。透析か死かの選択だった。腎移植の選択肢もある。あるにはあるが、ことはそれほど簡単じゃない。
 澱んだ静脈は澱んだ色のまま、空調の音より低く、自らの静脈から、自らの静脈へと還っていく。
 この血を眺め、不思議に思っていたことがある。それは、血は決して赤くないということだ。澱んで暗い葡萄色だ。生命の息吹も感じない。それは静脈だからだろうか。動脈であれば、この透明の塩ビ管が、鮮烈な赤に染まるのか。
 動脈からの透析も導入当初に体験している。ただ、このときは観察する余裕がなかった。この状況を受け入れるに精一杯で、血の色に気など留めなかった。
ただ、私はある体験から、この澱んだ血の色に、身勝手な妄想を持っている。
 こいつは死んだ振りをしているだけだと。
 透析を終え、止血に失敗したときのことだ。そうとは気付かず帰り支度を始めた。枕に丸めたバスタオルを畳み始めたとき、血の滴が白いシーツに飛んだ。
 純白のシーツを染めたのは、目の覚めるような鮮やかな赤だった。止血が十分ではなく、穿刺した痕から血が滴り落ちていた。
 白いキャンバスを染めた鮮烈な赤に、生きてるじゃんと思った。黙って大人しく、塩ビ管に閉じ込められているときは死んだ振りをしながら、それが解き放たれて初めて、生来の赤を発揮する。なんだか、これまで騙されていたような気分になった
 
「はい、いいよ」
 漁船は河岸を変え、新たな漁場ポイントに到達した。
 鯖は小魚を追って、ひとところにとどまっていない。
 鯖の群れを貪欲に追って、漁船は江ノ島沖を回遊する。海鳥が群れをなすポイントへ、他船にさきがげ乗り付けることこそ、船長の腕の見せ所だ。
 釣りとは、もっとのんびりしたものだと思っていた。おかっぱりなら、そんな間があるのかも知れない。ところが船釣りでは、こちらから魚群の真っ只中に船を乗り入れてゆくのだ。
「ほらほら、マキさんも釣らなきゃ」
 慶太に即され、私も沖に竿を伸ばした。ラインローラーを握る手を緩め、するすると海中にテグスを落とす。と、途端に手応えだ。
「マキさん、それきてますよ」
 海中で右往左往する鯖を、対角線に竿をさばき、その手応えを怯えながらも堪能し、重いリールを捩じ上げる。
 鯖が海面を駆け上がり、跳ね上がり、途方もなく暴れまわる。
 竿を立て、ひとまず船内に鯖を取り込んだ。もはやない水を探して、鯖が尾ひれを激しく振って、空を掻く。
「マキさん、針元を持って」
 慌てて左手に針元を鷲掴み、船べりに竿を立てる。一呼吸して、鯖の腹を素手に掴む。鱗がぬめり、腰から肩に怖気が走る。私の躊躇いを見透かし、鯖は暴れて逃げ惑う。私は勇気をだして、これでもかと握る手に力を込めた。
 ぐう。
 鯖が鳴いた。
 利き手に鯖を持ちかえ、覚悟の圧力をかけたのだ。
「ねぇ、ねぇ、鯖がぐうと鳴いた。面白いね。なんかの合図みたいに、ぐうといったら身動きもしない」
 エラに鋏を入れるため、鯖を左手に持ち替える。この位置と圧がつぼと心得、慎重に握り変える。
 鋏を持って、エラを先をこじあけた。小菊の花弁が、葡萄色に脈打っている。どこに鋏を入れればいいのか、闇雲に刃先を突っ込んだ。鈍い手応えがあって、血しぶきが飛んだ。
 私が血抜き用クーラーボックスに鯖を放り込んだときには、既に数匹の鯖が息絶えていた。
 慶太が、その鯖を取り掴み、最後の処置を施す。鯖折だ。
「マキさん、これ重要ですよ。見ててくださいね」
慶太が、鯖のエラに指をうずめ、容赦なく背面にねじあげる。
 血抜きされた鯖は、命脈をクーラーボックスの中にすでに閉じている。その上で鯖の延髄を折り、死後硬直を遅らせるのだ。
 なによりも鯖を美味しくいただくため、それは理にかなった処理なのだという。
 かくして、氷塊の詰まったクーラーボックスに、鯖はその身を横たえるのだ。

 エピローグ

 漁港に戻ったときには、シャツは血と汗にまみれ、バケツに汲みあげた海水で洗っただけでは拭えない、鯖のぬめりと、鱗が手と腕に張り付いていた。
「船宿に冷たい麦茶も用意しています。洗い場には、石鹸もありますから、手を洗ってからお帰りください。本日はご利用いただき、ありがとうございました」
 船長から、漁船のマイクを通したアナウンスがあった。
 私は一刻も早く真水に触れたかった。石鹸でこの掌に残る感触を洗い落したかった。ところが、慶太はそんなことには無頓着で、船宿に戻る様子も見せずに、埠頭にとめた車の影で、
「車が魚臭くなっちゃいますから」と、着替えを済ませ、帰り支度を始めている。
 船宿に立ち寄ったのは、クーラーボックスの氷を買い足すためだけだった。その隙に、私は丹念に手を洗った。

 慶太は運転席で待っていた。
「この鯖は、ぜんぶマキさんが持っていってください」
 クーラーボックスを埋め尽くした鯖は、三十匹はいるだろうか。
「いや待って! さすがにこんなにいらないよ」
「先日も大量で、家の冷凍庫に、鯖が溢れてるんですよ」
 私は、かなりバラシもしたが、それでも十匹は釣り上げたろうか。もちろん、自分で針を外し、血抜きをし、鯖折りだってした。その釣果だけで十分だ。
 釣れた鯖を持ち帰るため、四五リットリのポリ袋を二重にして用意をしてきたが、三十匹となれば、はたして、それに収まりきるかどうか……。
「マキさん、釣りが終わったと思ってるでしょう」
「思ってるというか、終わったでしょ」
「甘い! 釣りは、アフターフィッシングといって、釣ってからも大事なんです。鯖を捌いて、楽しく調理して、美味しくお腹にしまうまでが釣りですから」
「はあ、そうなんですか……、俺に、魚が捌けんのかな」
「簡単ですって。帰ったら、まず、ハラワタだけは取ってくださいね。そこから悪くなってきますから」
 一日一匹として、ほぼ一カ月は鯖が食卓にのぼる計算だ……。食費は浮くが、それはそれで辟易する。
「知ってる? そういや、鎌田くんがお笑いの単独ライブをやるってよ」
「そうなんですか」
「そのタイトルが、『やっぱり、お笑いが好きみたい』だって」
「ふっきれたタイトルですねえ」
「だよね。慶太くんはもう、お笑いやらないの」
 この問いを発する私にも躊躇いはあった。慶太が解消したコンビの相方は、クモ膜下出血で急逝していたのだ。フェイスブックで声をかけた経緯もそこにある。慶太が元相方についての思い出話をコメントしていたからだ。
 気持ちの整理がついたからなのか、区切りなのかわからないが、その書き込みは、全てを優しく包み込むような語り口だった。
 彼のコメントをつぶさによんで、私は身勝手に親愛の情が湧いた。若き日のセンチメンタリズムかも知れない、あるいは、自分の亡霊への郷愁だ。
 それで、ダイレクトメッセージを送ったのだ。
「芸人も鯖も変わりませんよ。芸人なんて鯖みたいに鱗を削ぎ落とされて真っ裸にされて、あるいは内臓までえぐりだされるんだから、そこまでして、美味いのまずいのいわれるんですからね」
「芸人はすべてがネタにされるもんね。
 つーか! 鯖の鱗はしつこいよ。乾くと、ぱりぱりになって、腕に張り付いて光ってるんだもの。
 こすっても、こすっても、剥がれない」

 お昼を回ったばかりだった。
 江ノ島の交差点には、見慣れた夏の湘南が広がっていた。
 片瀬江ノ島駅から人が吐きだされ、私たちはそれと逆行して家路につく。
 褐色に日焼けした若者が、上半身裸になって、「空あり」「P」と書いたうちわを路上でふっている。湘南によく見かける、チャラそうな男だ。
「みんな、真っ黒に焼けてるね」と、私。
「あいつらなんて、まだまだですよ」
 慶太が笑う。
「なにが?」
「男だったら、鱗の鱗くらいつけてないと」
 そう笑う慶太の腕には、いまだにこびりついたままの鯖の鱗が、太陽の光を浴びて、キラキラと輝いていた。


      了    二〇一一年九月

桶田敬太郎くんに、捧ぐ

この短編小説を元にして長編に仕上げました。それを新潮エンターテイメント大賞に応募したのですが、おしくも最終候補で破れました。

短編では、かなり事実に即した物語ですが、長編ではかなりの部分が創作です。あくまでも小説です。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありませんのでご注意ください。

こちらの長編verをマガジンに置いておきます。申し訳ありませんが、こちらの執筆にはそれなりの労力をかけているため、有料記事とさせていただきます。鯖がぐうと鳴いた(長編ver.)


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