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コーヒーと紅茶とシジュウカラと。かっこいい人間でありたい。

日記。令和6年6月18日。

 シジュウカラという鳥がいる。人間と同じく文法を備えた言語体系を持っているらしい。「ピーッピ」は「近づけ」、「ヂヂヂヂ」は「警戒しろ」という具合に。といって、事前に取り決めた範囲でしかコミュニケーションが取れないという意味では、自由な意思伝達としては未発達なのかもしれない。あるいは、人の言語も似たようなものか。

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 財団の壮行会に出席せよと命じられて東京に来た。といって、どうせ自腹を切るわけではないのだし、タダで東京見物をさせてもらえるようなものだ。別に悪い気はしない。11時発の新幹線で京都を出た。ちょうど父親くらいの年齢のサラリーマンと隣り合い、といって雑談を交わすわけでもなく、ただ流れる田畑を一緒に眺める。

 あいにくの豪雨のため静岡でしばし足止めを食ったが、14時前に東京駅に着いた。もともと千葉の友人と会う予定があったが、こんな天気では帰りの目途がつかないという理由で彼にはキャンセルされてしまった。果たしてやって来たとしても、雨で駅舎に拘束されていたはずだ。賢明な判断だと思う。雨の神社や展望台のあるカフェなど、一人でルーティン的に時間を潰せるスポットを複数巡り(行きたかった展示会は終わっていたが)、結局18時半前に会場のある新宿のホテルに着いた。

…………

 やたらと肩の凝るコース料理の最後、杏仁豆腐が出た。デザートの皿が置かれるのにあわせて、ウエイトレスのお姉さんがコーヒーか紅茶か聞いてくるものだから、コーヒーと答えた。左隣に座ったIさんは紅茶と答えた。すぐに、私たち二人のそばには空のカップとソーサーとが置かれた。どうやら中身はあとから別の人間が持ってくるらしい。

 Iさんと雑談を交わしていると、コーヒーと紅茶のポットを抱えたお兄さんが入ってきた。長いテーブルに20人あまりの参加者が並んで座っていたが、躊躇うことなく彼は順にカップにコーヒーないし紅茶を注いでいく。さっき伝えた全員分のオーダーが彼には全部伝わっているのか?そしてそれを全部暗記しているのか?

 彼の職人芸に舌を巻きかけたとき、ふとあることに気が付いた。私のカップはスプーンが左向き、一方でIさんのスプーンは右向きになっている。洗練されたテーブルで、これだけ統一されていないのは不思議でもある。あまりに自然な所作だったので気が付かなかったが、さっきのお姉さんは、まずカップとソーサーを置いて、それでオーダーを聞いて、そしてそれからスプーンを置いていたような気がする。そのとき私はコーヒーを、Iさんは紅茶を頼んでいた。

私のカップとソーサー
Iさんのカップとソーサー

 試しに私のスプーンを、Iさんにならって右向きに置いてみた。もちろん誰にも気づかれないように。何事も仮説と実験だ、と教育されて育ってきたから仕方がない。

 ほどなくして、Iさんのカップには旨そうな紅茶が注がれた。そして、私のカップに注がれたのも、また紅茶だった。間違いなく、そこにはシジュウカラが鳴いていた。

私のカップとソーサー


注がれた紅茶。スプーンは知らぬ間に整えられていた。

 スプーンの置き方も言語だ。そこに事前の取り決めをし、スプーンというシンボルそれ自身以上の意味を彼に付与し、他人と共有したとき、ある意味での言語がそこに生まれる。

 シジュウカラなら「ピーッピ」は「近づけ」、「ヂヂヂヂ」は「警戒しろ」。あるいは、レストランのマニュアルなら、右向きは紅茶、左向きはコーヒー。ソシュールの述べるように、意味を伝えるシンボルは、つまるところ何でもよいのだろう。しかし、外から無意味に見えるシンボルは、信念を共有する人間同士にとっては何らかの重要な意味を持つ。

…………

 人生の選択肢に迷ったときは、かっこいい方を選ぶようにしている。生き方の話であって、見てくれの話ではない。ある生き方をかっこいいと認定することは、その生き方に価値があると認めることと同義だ。かっこいい道は、選ぶ価値がある。自己陶酔から源泉するモチベーションは揺るがない。逆に、自分に酔いしれることができない生き方をしても、多分どこかで嫌になる。飽きが来る。人にかっこいいと思われるかは重要でないが、自分は自分の選択を最高にかっこいいと思っていたい。

 Iさんとは、壮行会が終わってから場所を移して少し話した。Iさんもまた、今夏から米国に渡る仲間の一人だ。そして彼もまたどうやら、こういう価値観を共有する人間だったらしい。複数の進学先を最後まで保留していた彼は、結局「かっこいい」方の道を選んだという。大学のネームバリューは劣る方、それでいて、自分が本当に活躍できる方を。

それを「かっこいい」側と表現する彼との間には、通じ合う言語があった。「かっこいい人間でありたい」という一言は、果たして、私とIさんとを留学に駆り立ててきた、力強いシジュウカラの鳴き声であったのだと思う。

新宿の某カプセルホテルにて

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