掟と真実(第1章〜第3章)
※こちらの小説「掟と真実」著者・葛城エースは、ガリレオ・ガリレイを題材にした小説付きCDアルバム「科学者の真実」小林信一(2018年)のクラウドファンディングで作成されたものをnoteで一般公開したものになります。
音源はSpotifyで公開されています。(この小説の一番最後にSpotifyリンクあり)
掟と真実
第1章
一六三六年 フィレンツェ ガリレオ 72 歳
いつの日からだろう。こうして、この満天の星の下、
吸い込まれるように限りなく透明な闇の中で、
ただひたすらに、全ての感覚こそ研ぎ澄ませるものの、
何かを考える訳ではなく、何かを思う訳でもなく、
宇宙(そら)の、そして闇のその先を、
ただ、そう、ただ見つめ続けるようになった日は。
そこに何かがあるような、そんな思いになったのは...。
イタリア、トスカーナ地方の都市、フィレンツェにある小高い丘の上から、満天の星を見上げる一人の老人が居た。
右手に杖を持ち、黒い衣装に白い髭をたくわえて、体こそ痩せ細っているが、眼光は気力に満ちたものである。
対象となる人物がたとえ誰であったとしても、人の生涯を伝える時に、言葉によって多くを語る必要は無いだろう。
その人がどんな人生を送ってきたかは、ただ一目見れば、大抵は感じる事の出来るものだ。
しかし、この老人の人生を最も雄弁に語る事が出来るのは、この満天の星かもしれない...。
第2章
一五八一年 十月 ピサ ガリレオ 17 歳
(鈍色(にびいろ)。灰色でも銀色でもない、透明感の無いこの色...) うっとうしい小雨の夕方、行き付けの酒場の外に掃き捨てられている鼠の死骸を見て、ガリレオは頭の中で呟くの だった。
店に入り、いつものカウンターに腰掛け、ワインを飲む。高級なワインなどではない。安酒である。美味である必 要も無い。ただ酔えればそれで良かった。このバール、つまり飲み屋も褒められた場所ではない。いわゆる、場末 の酒場である。
(人生を色に例えるというのはよく聞く話だが、俺の場合、この色だな...)店の隅でワインを煽り、一人自嘲する。 (何が分からないのかも分からない。何でこんなにも憂鬱なのか?何でこんなにつまらねえのか?酒を飲めば憂さ が晴れるというが、本当に憂さが晴れるのか?飲めば飲むほど、虚しさが込み上げてくるのはどういう訳だ?)
隣のテーブルの男と女の笑い声が耳障りだ。身なりからして、貴族なのだろうが、こういう酒場で彼らがするのは、 女を口説くだけだ。16 世紀のフィレンツェ、ヴェネチアは世界有数の歓楽街である。一攫千金を夢見る女性、そし て女に群がる男たち。
「フィレンツェ、ヴェネチアならまだ良い。ここはピサだぜ?こんな田舎に居る女なんてドブ臭えに決まってんだろ?」
自嘲気味に独り言を述べる。嫌でも会話が耳に入ってくる。
「君は他とは全然違うんだよ。君と一緒に居ると、新たな自分を発見出来る気がするんだ」
次から次に歯の浮くような台詞を決める男。言葉にうなずく女。腹の底では何を思っているのかといえば、互いに 刹那的な事だけであるのは間違いないと批判的に考えつつ、ガリレオ自身も同じ場所に居るのだから、その一人と 同類な訳で、彼らに文句を言うのは筋違いというものだ。
(しょぼいよなぁ...。俺を含めて)
強くなっていく雨音を聴きながら、ひたすら自嘲の言葉を頭の中で呟く。
酒場の扉が開き、
「遅えじゃねえかよ!何やってんだよ」 入ってきた男にガリレオは苛立ちをぶつけた。マルツェッロだ。マルことマルツェッロとは、幼馴染みである。フ ィレンツェでは近所に住んでいて、悪友ともいうべき存在だ。同じピサ大学に通っている。
マルツェッロは商家の金持ちの息子で、ガリレオのように貧しくはなかった。だが何故かお互い気が合って、何か する時には大抵彼と一緒だ。
「いや、悪い。授業の居残りでよ。政治学の課題が今一つだって絞られてたんだよ」
申し訳無さそうでもあり、開き直ったようでもある態度でマルツェッロは答えた。
「お前みたいなのが政治学んでどうすんだよ?おめーが治める世の中なんざ、一気に崩壊してハルマゲドン突入だ ろ?神の大いなる日の戦争って奴だ!教師って奴は何で気付かないのかねぇ...」
そう言いながら、ガリレオはマルツェッロにワインを注ぐ。
「ハハハ、そう言うなよ、そんな俺だからこんな田舎の大学に居るんだからよ」
マルツェッロは注がれたワインを一気に飲んだ。
ガリレオは更にワインを注ぎながら、
「お前んとこの兄さん達はすげー秀才なのにな。お前だけどうしてこうなっちゃったのかねぇ...」
と、皮肉を続ける。
「バカヤロウ!そりゃー、お前のお陰じゃねえか!」
マルツェッロは、ワインのボトルが空になっているぞと、カウンターの女性に指で合図しながら、ガリレオに返答 した。
仕方の無い会話をしながらも、マルツェッロと話していると確かに気が紛れる。彼と話していると、世の中の疑問や憂鬱な気持ちが、馬鹿馬鹿しく思えるのだ。お互いが似た者の気を感じ合っているのだろう。
全く他愛も無い会話や世間話をしながら、しばらくマルツェッロと酒を飲んでいたら隣のテーブルの女が、椅子を 蹴って
「何でいつも、あんたはそんななのよ!もう二度と会わないわ!」
と、金切り声を上げた。
女は息巻いて、大降りになっている雨の中を出て行った。
「何だ?振られちゃったのか?」マルツェッロはウエイターの持ってきたフリッタータを受け取りながら隣のテー ブルの男に目をやった。
「そのようだな。大体さっきから話を聞いてりゃロクな事言ってねえんだよあいつ。振られた過去の女の話とか、 何人と付き合ってどうのこうのとか...。そして、自慢話しててもよ、自慢は全部親のやった事だぜ?面白くも何と もねえんだよね。お前本人は何をやったんだ?って聞いてて自然とムカついてくるぞ。まあ、普通と思うよ、あの 姉さんの反応は。普通するか?付き合ってる女の前で過去の女の自慢話とか。デリカシーってやつが無いんだよな」 ガリレオもフリッタータを口にしながら更に批判を続けた。
「君と一緒に居る事で新たな自分が発見出来る気がするんだってよ。居なくなっちゃったから新たな自分は発見出 来なくなっちゃった訳な」
「いや、こういう結果になっちゃった自分は発見出来た訳よ」
マルツェッロもこの手の話は嫌いではない。面白がって批判は原型を留めないまでに酷くなっていく。
そんな嘲りにも似た話をしていたら、いきなり後ろから殴られた。話が聞かれていたようだ。
酒が回っていたので、その後はどうなったのか覚えていないが、マルツェッロと二人で店の外で四、五人の男と殴 りあいになっていた事は覚えている。
相手はどうやら、振られた男の仲間のようだったが、「覚えてろよ!」と怒鳴ってたから、殴りあいには勝ったと思 うが、もはやそんな事はどうでも良かった。
そして気が付けば、朝日を浴びて、血だらけの洋服のまま、体中激痛で、店の外の鼠の死骸の隣でびしょ濡れにな ってマルツェッロと一緒に寝ていた。
「ほら、マルツェッロ!帰るぞ!」
(...確かに俺の人生は鈍色だよな)ガリレオは呟いた。
第3章
一五八二年 五月 ガリレオ 18 歳
今日も大学に足が向かない。相変わらず憂鬱で、退屈な毎日を送っていた。
(さて、どうやって時間を潰そうかな」)
部屋に居るのも退屈なので、とりあえずは、下宿している叔父の部屋を出て思案する。大学に通う道の途中にピサ を横断するように流れるアルノ川がある。夜は星を眺めるのが多かったが、大抵昼はアルノ川のほとりで昼寝をす るのであった。星空の広大さとはまた違う川の流れの雄大さ。これもガリレオが好きな光景の一つだ。特に夕日の 差すアルノ川の流れは妙な美しさがある。澄んだ美しさは無いが、穏やかなのだ。川の流れを見つめ、時に無心に、 時に考え、時に昼寝。
(親の薦めで医者になる為にピサ大学に入学したものの、やはり人間には、適性というものがあるよな。俺は医者には向いてねえ)
学問が深遠な事を探求するという意味では、問題や課題を掘り下げる深さに違いは無いものの、質という点では全 く違うのだ。幼い時から“どうして?”と周囲に尋ね続けた探求心の塊のようなガリレオだったが、大学の授業で は“どうして?”の答えが、“過去の文献”なのだ。
“何々先生の文献にそうあるから、それが答えだ”全ての答えがこうなのだ。しかも、この学問の結論は、観察に よって万人に“こうである”という、明らかに分かるものではなく、“...であろうと思われる”という類のものだ。
頭の中がスッキリしない。“...であろうと思われる。”というのは、何なのだ?どうしてそれが答えとして尊ばれる のだ?医学の授業を受ければ受けるほど、苛立ちが増し加わっていく。結果、日に日に苛立つ自分の存在が嫌にな っていく。
(曖昧なんだよ。答えが)
落ちていた枯れた木の枝を小さくちぎりながら、川に向かって投げた。
(俺が知りたいのは、そんなヌルい事じゃ無いんだ。俺にとっての回答ってのは、広大な砂浜から一粒の砂粒を選 ぶかのような、体中の神経を一点に集中させるような、あの感覚、ピリつくような、あの快感なんだ...)
手に持ってちぎっていた枝が、細い枝がなくなり残りは太くてちぎれない枝になった。
(刃が丸い。鈍らだ。もっと鋭く、切れたのかどうなのかも分からないほどの鋭さで、俺の思う疑問や謎を切り裂 いて欲しいんだ...)枝の残りを川に投げ入れた。すると、大きな魚が水面を跳ねた。
(流れに身を任せるとはいうが...)
「帰るか」
一言呟き、おもむろに立ち上がり、下宿部屋に帰る事にした。
毎日アルノ川のほとりに行く訳にもいかない。アルノ川で過ごす時間は確かに好きだったが、今日は授業を受ける 事にした。古ぼけた校舎の入り口の所で、違う学部の生徒が話をしていた。
「今日の特別講師のオスティリオ・リッチ先生ってトスカーナ公国付数学教授なんだってよ?」
「だってな。どうやったらそんな存在に成れるんだろうな?特別な講師だぜ?全然わかんねーや」
彼らの会話を聞きながらガリレオには穿った考えが浮かんでくる。
(数学?公式あてはめて答え出すだけだろ?決められた答えを出すのがそんなに凄い事なのかね?)そうは思いな がらも、特別講師というのがどれ程のものなのか?という思いを満たしたい気持ちもあり、学部は違うがリッチ先 生とやらの数学の授業を一度聴いてみたいと思った。
(発展性の無い医学の授業より少しはマシだろ?わざわざ特別講師として来てくれた訳だしな)
ガリレオは数学というのが今一つピンと来なかった。堅苦しいイメージがあって、融通が利かなくて、小うるさい。
面倒なイメージしか想像出来なかった。
消極的な考えしか浮かばなかったが、そのまま普通に医学の授業を受けるのも癪だったので、リッチの授業が行わ れるという教室に入ってみた。流石に特別講師の授業である、多くの公聴生が居た。ガリレオは壁際の端の方で話 を聴く事にした。
オスティリオ・リッチが現れた。温厚そうな、それでいて威厳のある人物に見えた。彼の立派な髭や黒尽くめの衣 装がそう見せていたのかもしれない。
(いやいや、案外見掛け倒しって事もあるからな)
ガリレオは変わらず穿った目線でリッチを見ていた。
公聴生を一通り見回して、リッチは挨拶をする。そして、
「公式というのは決まった事な訳だ。これは何がどうなっても変わらない。そして公式で答えは一つしかない。そ れが数学における真実であり、事実だ」
開口一番こう言った。そしてリッチは横を向き教室の左端に向かって歩き始めた。
「君たちは、数学っていうのは、決まった公式だと思っているだろう。それは確かにそうなのだが」
生徒の方に向き直り、
「しかし、数学において本当に重要なのは、決められてしまった公式ではなく、実は仮説、未だ発見されていない もの、つまり発見されていないものを発見する力である想像力なのだ。そしてその想像して出来上がった形を、ど うやって数字を用いて式に表せるか?それこそが重要なのだ」
更に少し間を置いて述べた。
「つまり、こう考える事は出来ないか?‘答えがあって、公式がある。公式など決められたものは、どうにでもな る’と」
リッチは自身の述べた言葉を証明する数学の実例式から、流れるように授業を進めていくのであった。そして、ガ リレオは頭の中で呟いていた。
(公式が答えなのではなく、答えを公式によって...)
ガリレオは繰り返し頭の中で呟いた。そして、不思議と鈍色の箱の鍵がカチンと開くような感覚を感じた。思わず 身を乗り出して話を聴いている自分がいる。そして何故か目の前に違う色が見え始めた。
(煙のような鈍色を抜けた...。紺?濃紺?黒?...。だが、この透明感は一体何だ?)
幻覚にも似たその感覚にガリレオは戸惑っていた。
(俺はどこかでこの色を見ている...。黒なんだが、どこまでも透き通った闇...)
不思議な感覚に包まれていると、現実に引き戻されるかのように、講義の最後にリッチが質問は無いか?と公聴生 に尋ねた。ガリレオは躊躇無く挙手していた。
「先生、数学というのは結局何なのですか?」
ガリレオの質問は授業の内容に関係無い、あまりに漠然としていて単純な質問であった。その為、数人の生徒から 嘲りとも思えるような失笑がおきた。だが、リッチは答えた。
「良い質問だ」
そして彼らの失笑を遮るように、
「だが、私にもその答えは分からない」
と述べた。意外な答えに生徒達は驚きをみせた。そして、こう続けた。
「皆も、幾何学精神という言葉を聞いた事があると思うがこれは、今日最初に話したように、大まかに言えば‘式 あって答えあり’という考えだ。だか、何度も言うようにそれは‘答えあって、式あり’という方法も成り立つと いえる」
再びリッチは教室の左の方に歩き始めた。
「式に対する答えを探す事が全てなのか?それだけではなく、まず、明確な答えがあって、後で式を探すという方 法もある訳だ。この場合、答えは数学とは程遠いと思えるような、一見曖昧と思えるあの感覚、つまり直感という か感覚的なもので捉える事になるだろう。そして後で式を理性的に探す訳だ」
話の途中でリッチは黙って考え始めた。
「数学というのは何なのか...」
呟き、また少し考えて、再び答え始めた。
「大昔の話だが、エウクレイデスという数学者がエジプトの王に「幾何学を学ぶのに簡単にすます方法は無いか? と尋ねられた時、エウクレイデスは「幾何学に王道無し」と答えたという。つまり、この道に王道、近道は無いと の意味だ」
そして誰と目線を合わせる訳でもなく、生徒の方へ向き直った。
「それが答えとなるかもしれない。つまり、数学とは気の遠くなるような努力と根気で、多くの式を発見する以外 に、それ以外に一つの公式を見つける方法は無いという、こういうものではないかと」
リッチは、ガリレオに微笑みかけて述べた。
「その問いについては私も探求者なので明確な回答とはいえないが、これでいいかな?」
ガリレオは素直に
「はい!凄くよく分かりました!ありがとうございました!」
と答えていた。リッチの答えは他の生徒達には漠然とした答えに思えたようだ。だが、ガリレオにはそれは非常に 鮮明な答えだった。
教室を出て下宿先に向かって歩いている。圧倒された。そして、脳裏に過ぎったあの不思議な色“透き通った闇” について考えていた。
...確かに暗い色ではある。だが、先が見えないような黒ではない。その漆黒の先に何かがあるような“透き通った 闇”。鈍色のような先の見えない感じの無い、“透き通った闇”。不思議な心地良い黒。その先へ行ってみたくなるよ うな、どこまでも“透き通った闇”。そして“これだ!”と悟る自分が居た。
(俺はこの“透き通った闇”を知りたかったんだ。どこまでも澄んでいて、それでいて黒いこの色を!)
感じたのは導く光などというものではなかった。だが確かに希望に似た感覚をガリレオは掴んでいた。
次の日も、リッチの講義を聴きに行った。ガリレオは同じように質問する。
「それでは、実際、数学はどのように利用出来るのですか?」
リッチはガリレオの方を向き、答える。
「これも良い質問だ」
リッチは、また前日の講義と同じように、少し考えて答え始めた。
「数学というのは、利用する学問なのだ。ある公式とある公式を組み合わせていく。そうすると、必然的に答えが 出る訳だが、その出した答えを何に使うのか?それが最も大切な事とも言える。これが抜けると、頭でっかちな人 間にしかならない」
そしてまた、教室の左に向かって歩きながら話を続ける。
「したがって私は、建築や設計、工芸などの分野で計算式を活かして、そう、活かしていく方法が見つかれば、世 の中はもっと住み良い所となると信じている。このピサにある大鐘楼が、どうして傾いてしまったのか?私は詳し く調べた訳ではないが、少なくとも何かの計算が間違っていたのだろう」
下を向き、考えながら真剣にリッチは答える。
「測量、重量、高さ、面積...それらが数学を利用し精密に繊細に計算されて設計されていたとしたら、ああいう結 果には、なっていない。それで、私は地元フィレンツェでは、工芸や建築も数学と一緒に研究しているのだ」
真摯に答えるリッチにガリレオはいつの間にか引き込まれていた。そして新たな世界、“透き通った闇“を心地良く 感じる気持ちが強くなっていくのを感じていた。
リッチは講義期間を終え、フィレンツェに戻っていった。フィレンツェはガリレオの家族の居る街でもある。妙な 親近感をリッチに感じていた。そして “自分もそこにいる人間だ”とガリレオは確信した。物理的にフィレンツェ に行きたいという意味ではなく、知らぬ間にリッチと同じ世界観で世の中を見たいと思うようになっていたのであ る。リッチに対する憧れという感覚がその思いにさせるのか?もちろん、それもあるだろう。だが、それよりも、 リッチ一個人に対する憧れというよりも、この透明な黒の世界に住みたいという不思議な希望が強くなったという 意味での確信であった。
それ以来、医学の論文研究を放ったらかしに、来る日も来る日も数学に関する本を読み漁っている自分が居た。本 来、本を読み、根を詰めて探求するのは嫌いでは無い。読むだけではなく、疑問点をリストアップし、考えた公式 をひたすら記入し自分なりに論文らしきものも書いてみた。楽しかった。学べば学ぶほど透明感が増していくその 感覚が快感なのだ。そうした日々が数ヶ月続いた。そしてまた、リッチが講義に来るとの知らせがあった。ガリレ オは当然のように、講義を聴きに行くのであった。
(以前聴いた時よりも、内容が近くに感じられる)
ガリレオは以前には見えなかったものが見えるような、そんなある種の確信を得るのであった。
リッチの授業は、深いものではあったが、あくまで特別講師としてピサに幾日か滞在し数学や幾何学を教えるとい うものである。したがって、講義の内容はどうしても、数学の可能性や興味深い点を生徒に感じてもらうという一 般的な内容に留まらざるを得なかった。勿論、ガリレオはその授業によって大いに覚醒した一人ではあるのだが、 複雑で込み入った内容は当然の事ながら多くの公聴生の居る講義の中では不可能である。それでもどうしても尋ね たい点があったので、講義が終わった後、ガリレオはリッチに面会しに行く事にした。
薄暗い大学の研究室の机に向かってリッチは何かを執筆している。
「先生、教えて頂きたい点があるのです」
緊張した面持ちで、そして自分の書いた論文を元に、色々と質問するのであった。リッチは驚嘆した。
「これは、君が書いたものなのか?誰に教わって書いたのだ?」
ガリレオは、はにかみながら、
「自分で色々考えながら、ひたすら本を読んで...」
と答えた。
(何と!これだけのものを、独学で探求したというのか!しかも数ヶ月で?)
リッチは心の中で驚嘆した。その論文は拙いものではあった。だが、リッチは何よりその情熱に驚かされたのだ。
そして文面を見ればどれだけ真摯に研究してきたかが分かる。そしてリッチは確信するのであった。‘この男は怪物 になる!’自分の驚きを悟られぬようにして、リッチはガリレオに尋ねた。
「君は医学を学ぶためにこの大学にいるのだろう?何故、このような数学論文を?」
ガリレオは、引き続きはにかみながら答えた。
「どうも医学は苦手でして、その...。何でなんでしょう...」
そう言われれば、どう答えていいのか分からなかった。考えてもいなかった。というより‘透明な黒に住みたくて’ などと言える訳もない...。リッチは溜息をつき、
「ふむ、だが、この論文は良く書けている。詰めの甘い点もある。だが補って余りある情熱がある」 リッチは受け取った論文を閉じた。そして、
「この論文にある、疑問に対する答えだったね。それは、君が解いてみなさい。ヒントは授けよう」
と答え、書棚の中から、古ぼけた二冊の本を取り出し、ガリレオの論文と一緒に渡した。
「エウクレイデスとアルキメデス...。二人ともキリスト以前の時代に存在した偉大な哲学者だ。私の講義の中では、 よく彼らの研究を議題にしているが、今の時代では、もてはやされてはいない学者だ。いわば忘れられた存在だ」 そしてガリレオの持つ二冊の本を見ながら、一息ついてリッチは述べた
「しかし私の研究とは、実のところ彼らの遺志を研究する事に他ならないのだ。偉そうに述べるなら、彼らの後継 者になりたい。それが私の願いなのだ」
リッチは書棚を整頓しながらガリレオに語りかけた。
「人の一生には限りがある。探求し、研究した課題が大きければ大きいほど、疑問も論題も膨大に多くなり、それ はとても自分ひとりで担える研究課題ではなくなってしまう。いずれ私も地の人の道を歩み死ななくてはならない だろう」
リッチはガリレオを見つめた。
「どうだろう?君さえ良ければの話だが、私の研究を手伝ってみる気はないか?その二冊の本は、他の生徒には私 が決して触れさせなかった論文だ」
それは、回りくどい言い方ではあったが、弟子になれという薦めに他ならなかった。ガリレオは即答した。
「宜しくお願い致します!」
リッチは嬉しそうに微笑み、続けた。
「今回の講義滞在の後は、私はここ、ピサにはそんなに来る事は出来なくなるだろう。他の都市にも行かなくては ならないし、フィレンツェでの仕事も膨大にある。だが、私に会わなくとも、君は君のこの論文の答えを出せるだろう」
ガリレオは答える。
「私も家族はフィレンツェに居まして、ピサには大学の為、居るだけです」
リッチは笑いながら答えた。
「ほう、そうなのか。君はフィレンツェの出身なのか」
「はい、生まれはここピサですが、フィレンツェに家族で移転しました」
リッチの笑顔によって、いつしかガリレオは緊張を解して会話するしていた。同じ世界を共有する事が出来る人が 居る。仲間というにはおこがましいが、心地良い思いを感じていた。
(この人も“透き通った闇“の世界に住んでいるのだろうか?)
そんな思いを抱きながら気づけば辺りは既に暗くなって、空を見上げれば星が輝き、月が微笑んでいた。
リッチがフィレンツェに帰った後、ガリレオの行った事は一つだけだ。そう、渡された二冊の論文を研究する。そ れだけである。大学での医学の授業には、時々気休めに行き、下宿先では二冊の論文を研究。そんな日々を送って いた。そして、色々分かってきた。数学というのは単純に数字の研究というより、物理学としての背景があって発 展してきたという事、仮説を定説にさせるのは哲学者の仕事である事、そしてどうやら、世の中で一般的なのは‘ア リストテレス’という哲学者の論理なのだという事。
(本当に研究ってのは、人生そのものだな。人間そのものが公式って感じだ)
ガリレオは学問というものの深さを改めて感じるのであった。エウクレイデスとアルキメデス。この忘れられた研 究者達。ガリレオは中でもアルキメデスの存在が興味深いと思っていた。
(物理学か...。観察し、発見した事を数式にして、答えを出す事で、発見した事実を確証させる学問。アルキメデ スは物体には支点があるという事実を発見した学者としても有名だが、テコの原理がこんな数式によって確立され ているとは思いもしなかった)
部屋の中を整頓しながら考えていた。
(支点かぁ...。確かに不思議だよな。その支点を中心にして様々に考えていく訳だが。力の作用というのが加わっ てまた色々景色が変わる。でも、何かの法則性があるはずなんだ。法則性が...。そして法則性は数字に変換出来る。 数字に変換出来るものは、数式で表して、答える事が出来るんだよな。支点ねぇ...)
考え過ぎて煮詰まってきた。そんな時ガリレオにとっては、星空を見る事で頭を浄化させるのが習慣なのだが、た まには街へ出てワインでも飲もうと思えた。そんな時にはマルツェッロを呼ぶ。昔からの公式だ。
マルツェッロは相変わらず大学での居残りで、政治学の何かの課題に取り組んでいたので、ガリレオは教室に居る マルツェッロにジェスチャーで合図を送り、先に居酒屋に行くと告げた。二人の風習である。
(そういや、ここで酔っ払って喧嘩になったんだっけ)
何だか遠い過去のように思えたが、あれから一年と経っていなかった。見える景色が鈍色ではなくなっていた事に、 ガリレオは不思議な満足感を感じていた。何もかもが愉快に見える。あの重苦しい感覚は一体どこへ行ったのだろ うか?ここが以前と同じ街とは思えなかった。
店に入ると、ガリレオが待つはずのマルツェッロが既にワインを飲んでいた。
「おう!ここだここだ!姉さん!ワインをもう一本追加してくれ!」
ほぼ満席の店内。騒がしい空気の中、マルツェッロの声が響く。
「あら?マル、何でお前が先に来てんだ?」
「ハハハ。論文終わりそうに無かったから、腹痛いって言って早退してきた。それで走って裏道通ってここに来た からな。結果として腹が痛い。お前医学生だろ?治せないか?」
「末期症状で手に負えません。マルツェッロさん、天からお迎えが来ております」
「ハハハ。まあ、それはそうと、ガリレオは、何だか最近忙しそうじゃねえか?アルノ川が恋しくねえのか?」
街の景色や住む色は変わったがマルツェッロだけは変わらないな...。ガリレオにはそれがなんだか可笑しかった。
「いや、色々あってな。論文調べたり、書いてる。ピサに来てから一番充実してるかもな。マルツェッロみたいに 居残りはしてないけどな。自分の部屋では真面目に学生やってるぞ」
「そりゃー大事件だな。何の論文だ?」
マルツェッロはワインをガリレオに注ぎながら尋ねた。
「数学って奴だ」
ガリレオはワインを一口飲んで答えた。
「数学?医者になるのに数学が要るのか?」
マルツェッロは給仕の姉さんに合図して、いつものつまみを注文した。
「いや、医学とは別だよ。物の原理とか、まあ、物理学って事になるのかな?それと、図形の計算の研究したりしてる」
「それが何かの役に立つのか?」
「そう思うよな?やっぱ」
ガリレオは自分がリッチに尋ねたのと同じ質問をマルツェッロがしたのを可笑しく思っていた。
「マルツェッロの政治学論文ほどではないかもしれないけどな、俺も論文書いてみたんだよ。実はあのオスティリ オ・リッチ先生の講義に影響受けてな、自分で数学の本読んで研究して、疑問に思う点をリッチ先生に提出してみたんだ」
「ほお。また、面倒な事を...」
「茶化さないで聞けよ!そしたら、リッチ先生は弟子にならないか?って誘ってくれて、二冊の論文を俺に渡して くれたんだ」
「へえ、しかし、それって凄くね?あのオスティリオ・リッチ先生だろ?この間特別講師で来たトスカーナ公国付 きの。あんまり弟子を採らない事で有名なんだけどな。リッチ先生は」
「そうだよ、そのリッチ先生。で、その二冊の論文はエウクレイデスとアルキメデスに関する事だったんだ」
「こりゃーまた難しいなぁ」
「ハハハ。まあ、そうだな。で、アルキメデスは支点を発見というか研究した事で有名だけど、その支点の事を色々 考えてたら煮詰まっちゃってな。何だか酒でも飲みたくなった訳よ」
「そうだったか。まあ、俺でよければいつでも呼んでくれや」
マルツェッロの良さはこのレスポンスの良さである。自分がどんなに忙しくしている時でも常にガリレオには付き 合い、常にガリレオの良き話し相手となったのである。
「ところで、マルツェッロの政治学はどんなよ?」
「そうだなー...。ガリレオの医学と同じ位の仕上がりだな」
「そりゃー優秀だな!」
注文していたいつものフリッタータを給仕の姉さんから受け取りながらガリレオは述べた。
「大したもんよ。それはそれは!でも、マジな話で、このトスカーナっていうか、フィレンツェも含めてイタリア は危ないかもな...」
「どういうふうによ?」
「このイタリアはローマにあるカトリックの公議会によって治められているだろ?だが、最近公議会の権威が弱体 化してきてて、周辺国が反発してるらしい」
「大学の授業の政治学ってそんな事まで教わるのか?それこそそんな情勢まで大学で教えてたら先生達が枢機卿の 方々に怒られるだろ?」
「いや、授業ではそんな事は語らないよ。これは俺の兄さんからの情報なんだ」
「ああ、あの秀才の兄さんか...」
「お前の知ってるように、うちは、割と裕福な家だろ?だから政治家とか枢機卿の方々なんかと繋がりが半端ねえ んだ。俺は嫌なんだけどよ。そういうの。でもゆくゆくは、そっちの世界で生きていく事になっちまうんだろうな って思う...。そういう訳で情報は色々入ってくるんだ」
「なるほどなぁ...」
「金持ちの所には悩みなんかねえって思ってたろ?面倒臭さは貧乏人の百倍だぜ?」
「うるせえ!見下してんじゃねえ」
「でもよ、実際、嫌なんだぜ。何でも金、金、金でよ。勿論、金も大事だけど、もっと重要なものがあるんじゃね えかな?って思いながら生きるっていうのはよ」
「うちは逆だな。金無かったからな。違う意味で金、金、金だったよ。まあ、そんな貧しい中でも俺を育ててくれ た親父やおふくろには感謝してるけどね」
「なんだかなぁ。世の中のバランスが上手い事取れれば良いんだけどな。秤みたいに」
「秤か...。秤が揺れて...。ん?待てよ!」
ガリレオは閃いたのだった。
「秤が揺れる...。揺れるっていうのは、支点を中心にして紐(ひも)が振れるって訳だよな...この振れって、アル キメデスの支点の原理とちょっと似てるよな。支点があって力の作用があって...」
「おい!ガリレオ!何だってんだよ!とにかく飲め飲め!」
「いや、マルツェッロ、ちょっと待て!思い付いた事があるんだ。姉さん、すまないが、何か紐ないかね?」
ガリレオはさっき注文したフリッタータの入っていた皿を片付けようとしていた給仕の姉さんに声を掛けた。
「紐?何でもいいの?」
「ああ、あれば細くて丈夫なある程度の長さのものがいいな」
「わかったわ。探してみる。何に使うの?」
「実験さ」
「実験?何の?」
「まあ、持って来てくれたら分かるよ。それと出来たら何か錘になるようなものが二つあれば」
姉さんは厨房の奥へ頼んだものを探しに行ってくれた。
「錘って思い付かなかったから、これ持ってきたけど」
そして姉さんは紐を二本と錘となる玉ねぎを二つ持ってきてくれた。
「こんなのでいいの?どれ位の大きさのものか分からなかったから、重さが違うけど」
「ああ、これで上等だ。しかし、玉ねぎとは恐れ入ったなぁ...」
「なによ。何でもいいっていったじゃない」
「いや、すまんすまん。これでいいんだ」
そして、ガリレオは紐の長さを同じに揃え、それぞれ重さの違う玉ねぎを紐の長さを同じにして括り付け、それをテーブルにぶら下げた。
「紐があって、玉ねぎが揺れて...。この時の玉ねぎの振れ幅は時間に換算するとどうなるんだろう?重い玉ねぎで 振れが大きくなるのと、軽い玉ねぎで振れが小さいのと、一回の振れで掛かる時間は、紐の長さが同じなら...」
「あ?重い方が時間が掛かるに決まってんだろーが!」
マルツェッロは面倒臭そうに答えた。
「ここに居る三人で検証してみよう」
そして、それぞれの玉ねぎを紐で揺らしてみる。
「どう?」
ガリレオは尋ねた。
「そうね。一往復の時間よね?...うーん同じなんじゃないかなぁ。私にはそう見えるわ」
「いや、重い方が若干速くねぇか?」
マルツェッロは答えた。
「これを計算式にすると...。理論上同じになるはずなんだ」
「そうなのか?で、この玉ねぎが何なんだよ!もういいじゃねぇか!とにかく今は飲め飲め!」
「そうなんだ!同じになるのね。不思議ね。私も重い方が早いって思ってたわ。でも観察する限りでは振れ幅は違 うけど、確かに一往復の時間は同じだわ。そんなの考えた事も無かったけど。お役に立てたかしら?」
「ありがとう!凄く助かったよ。お陰で色々閃いたんだ。良かったら君も一緒に飲まないか?」
「ごめんなさい。そうしたいんだけど、私は仕事があるからまた今度ね。ありがとう!」
厨房の奥から声が聞こえる。
「マリナ!なにやってんだ!」
「はい!すいませんただいま!」
給仕の姉さんは忙しそうに戻っていった。
マルツェッロは呆れて言った。
「全く、お前はいつもそうだよ。思い立ったら直ぐに確認しないと気が済まない。もうちょっとゆとり持って生き ないと息が詰まるぞ」
「ハハハ。アルノ川でゆとりは随分味わったからな。でも、今日はいい日だよ。良い事発見出来た。今日は飲もう!」 これまで飲んできたのと同じ安いワインであったが、それは今まで味わった事の無い美味しいワインに思えた。
あくる日、ガリレオは朝早くから机に向かい、昨晩の実験を数学的に考えて、論文を書いた。
それにより“振り子の等時性の発見”つまり、“紐の長さが同じなら錘の重さや振れ幅に関係なく、一往復での時間 の長さは同じになる”という定義を確立したのである。世紀の大発見である振り子の等時性の発見は大学中の噂と なった。
この発見はガリレオが実験して発見した最初のものとなった。そしてそれは今まで誰も気付きもしなかった事実を、 実験により、論理的に数学的に定義付けした事により、変わり者の喧嘩屋で医学の落第生が、“天才”と注目を浴び る存在となった瞬間でもあった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?