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記念式と1914年

1986年2月から私は自動車学校に通うようになった。就職先も決まり、4月の入社式までに免許を取ってしまう計画だった。

そんな中でも土曜日の聖書研究と、日曜日の集会は欠かさなかった。

ある土曜日の午前11時、自動車学校が長引いてまだ帰宅できない。バスの中で焦る私。もう司会者は家に到着しているはずだとドキドキした。

当時は携帯電話などない。公衆電話を見つけても、反対者の親が出るならばかけない方がいいと決めて、家路を急ぐ。

(早く帰らないと鈴木さんが待っている、早く帰らないと)

私は心の中で焦って独り言を言っていた。と同時になぜ時間に追われながら生活しているのだろうという疑問も持った。

(一回くらい休んでも怒られないよな。今日はもう遅刻してしまおう)

そう思った。研究は義務ではないのだし、一番の優先順位は免許を取ることだと自分に言い聞かせて、その日の遅刻をきっかけに土曜日にも予定を入れる。

そんな不安定な時に鈴木さんはこんな言葉を私に聞かせた。今度は悪魔を喜ばせているか、神を喜ばせているかの選択ではない。

イエス・キリストの例え話だ。農夫が蒔いた種がどこに落ちるかというものである。岩地なのか、イバラの間なのか、良い土の上なのかである。

種は王国の良い知らせの事。ハルマゲンドンが来るという事だけではなく、緊張感を持たせるために、それが近いということも教えられた。

『事物の体制の終結のしるし』という言葉が使われた記憶がある。別の言い方をすれば「終わりの日のしるし」だったと思う。

終わりの日には大きな地震、疫病、食糧不足、戦争がある。それら全てが複合的に起きたのは1914年だという。

1914年に始まった第一次世界大戦がそのしるし、激痛の始まりだと研究用の書籍を見せられた。私は確かにそうだと信じた。

西暦前607年に古代エルサレムが滅ぼされ、ダニエル書の預言からそこにある数字を足すと1914年になると教えられる。

エホバの証人の間では絶対的な年代計算である。その計算式を見て私は、預言が当たったと震え怯えた。さらに1914年にそのしるしを見た世代の人が亡くなる前に大患難が起きると言われる。

その時青年だった人たちが死ぬ前ならば、もう100年はないだろうと確信を持った。ハルマゲンドンが近い。それは遅くなることはない。必ず自分が生きているうちにやってくる。

早くみんなに教えなくてはいけない。

そんな良い知らせは、私の場合イバラの間に落ちたのだと言われる。始めは喜んで聞くが、迫害や生活の思い煩いがあると芽が出るのを塞がれる、いやもう塞がれているのだと言われた。

自動車学校はもちろん、就職してから仕事を覚えることが思い煩いだと指摘されたのだ。自分の心は良い土だと思っていただけに、この指摘は私をへこませる。

神さまを信じて見つけたという喜び、純粋な心は、簡単にイバラで塞がれると。

研究や集会を蔑ろにしている態度を遠回しにダメなものだとレッテルを貼られると、人格を否定されたような思いを持つ。

そんな中、年に一度の記念式だけは出席するようにと招待状を渡された。

私は、イエス・キリストのことが好きだったし、贖いという難しい教理でも感謝の気持ちを持っていたので、これだけは出席した。

親の反対の中、夜こっそりと家を抜け出して記念式に出席した。

司会者もエホバの証人の信者たちみんなが、久しぶりに王国会館に顔を出した私を囲んで褒めてくれた。これがラブシャワーと呼ばれるものだと最近知ったが、この効果は大きい。

もう神さまとイエス・キリストを悲しませてはいけないのだだと固く誓う。

しかし、不規則な就業体制の中で研究の時間を取ることは不可能だった。サービス業に就いたため、日曜日の休日は皆無だった。

司会者の鈴木さんの要求は夜の集会の出席。それにも応じないと分かると、半年経っても行動を起こさない人は、組織から研究をやめるようにとすすめられている。私は半年で研究を打ち切られた。

少しスッキリした反面、鈴木さんが最後に読むように勧めた言葉が頭の片隅にこびりついていた。

「さあ、来るがよい。私たちの間で事を正そう! たとえあなたの罪が緋色のようであっても……羊毛のように白くする」イザヤ1:18

私はこの言葉をなぜ言われたかその時はわからなかった。が、異性を好きになり付き合いが始まると、普通のことでもエホバの証人にとったら罪だと思われていたことを知ることになる。

エホバの証人が世と呼ぶ世界に身を置くことは、ハルマゲンドンで死ぬ側の人間になったということだ。

記念式に出席してイエス・キリストの贖いの犠牲に感謝を捧げても、実生活では罪を犯している者として、神さまの是認を受け入れられない。

私は自分で、自分を裁くようになってしまった。

たった半年の研究でここまで思考が、神かサタンか、滅びか生き残るかになるとは思わなかった。

ただ、神さまを知り、毎日感謝を表せるだけの暮らしを、穏やかな生活をしたくて聖書を求めたのに。

生きているだけで罪。世の人となった自分は罪人。

こんな自分はもう価値がない。孤独を感じた。

1914年の教理に縛られて、怯えながら暮らすようになる。時にはどうせハルマゲンドンで死ぬ側ならば好きに生きようとやけにもなった。

彼氏が出来て、同棲して、流産した時、私は神さまに罰を与えられたと感じた。罪を犯したから子供が死んだという短絡的な思考は、愚かで未熟だったと思う。中途半端な神エホバの知識が自分で自分を苦しめる。

生きている価値がない。毎日死ぬことばかり考えるようになる。

エホバの創造物で死ねたらいいな。雷にうたれて死ねたら幸せだろうな。

神さまに嫌われた私は、もっと愚かなことに血液型を偽った。もし事故を起こして輸血されても死ねるように、違う血液型を書いて身に付けた。

記念式と1914年は私を呪縛し、自由を奪い、メンタルを崩壊させるものだった。

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