エスカレーター逆走女、知的障害者の絵、時計少年
3月8日は国際女性デーということで、Twitterの男女論界隈では毎年議論が盛り上がるようなのだが(実はよく知らない)、今年はヤングカンヌで金賞を受賞したという動画が話題になっていた。
制作者は、映像作家の富永省吾氏。続くツイートの中で制作に至った経緯が説明されている。
映像の内容を説明するとこのようになる。
スーツを着た女性がエスカレーターの"下り"のレーンに乗り、一生懸命走りながら上にあがろうとしている。その隣の"上り"のレーンにはスーツを着た男性が立ち、逆走する女性を横目に追い抜いていく。
この映像を見て制作者の意図を理解するのは難しいものではないだろう。
雑に要約してしまえば「女は社会で不公平な競争を強いられている」という、ジェンダー論でよく登場するステレオタイプ的主張である。
この映像作品がヤングカンヌで金賞を受賞したとのことだが、私は優れた作品だとは思えなかった。
「女性が社会で不公平な競争を強いられている」ことを「エスカレーターを逆走する女性」で表現しようという発想が安直だからだ。この点は「CMの表現としてはわかりやすくて良い」と褒めることもできるだろうが、私はジェンダー問題という手垢の付いた分野における表現としては陳腐だと思う。
また、表現の意図としては女性が社会に置かれている状況の深刻さを伝えたいはずなのに、「一生懸命エスカレーターを逆走する」という映像が滑稽に見えてしまうという致命的な欠点がある。現実世界でエスカレーターを逆走するのはふざけている子供か成年被後見人っぽい人だけである。
上記のように、私はこの映像作品を評価しない。私自身がアンチフェミであることを差し引いても、やはりこの作品が優れているとは評価できないだろうと思う。本当に優れた表現であるならば、敵対陣営の心をも動かし、改宗させてしまうのではないだろうか。わからんけど。
金賞を受賞したということは、主催者はこの作品を優れていると評価したということだ。どのような点が評価されたのかはわからないが、少なくともポリコレ加点があったのは間違いないだろう。仮に「女性は成人したら早めに家庭に入り、良き妻、良き母として家事育児に従事し、働くお父さんを支えよう」というメッセージの作品があったとしたら、評価されただろうか?
断言できるが絶対にない。いかに映像作品として優れていたとしても、メッセージ性においてポリコレに反する作品が評価されることはありえない。これはいまの社会で生きている人であれば誰でも知っていることだ。北朝鮮の子供は将軍様のお言葉を暗唱できれば(学校で)加点されるが、将軍様を侮辱すれば死ぬ。ポリコレ先進国の民はポリコレを賞賛する表現活動を行えば道徳性が加点され、ポリコレを侮辱すれば(社会的に)死ぬーーつまりそういうことである。
この映像作品について考えていたら、「そういや最近似たようなものを見たな」と思った。
先日、新しく事業を始めるため融資を受けようと思い、面談のため日本政策金融公庫に行ってきたのだが、通された個室の壁の両側に絵が掛かっていた。謎の調理器具が並んでいる絵と車の絵だった。稚拙だったので最初は子供の絵かと思ったのだが、絵の下のキャプションボードには「社会福祉法人◯◯(施設名) ××(人名)」とあった。つまりそれは子供ではなく知的障害者が描いた絵だったのだ。
なぜ日本政策金融公庫は壁に知的障害者の絵を飾っているのだろうか?
ポリコレ加点のためである。ただし、この場合加点されるのは絵を描いた知的障害者ではなく、日本政策金融公庫の方である。なぜなら障害者の絵を掲げることによって社会に向けて「正しさアピール」をすることができるからだ。白饅頭尊師がよく使う言い方をするなら「道徳的優位性を獲得するため」である。公庫はポリコレ加点を得るために/道徳的優位性を獲得するために、知的障害者の絵をダシにしている。私はそう感じた。
ヤングカンヌや公庫の正しさアピールがいわば「積極的正しさアピール」であるとすれば、「消極的正しさアピール」も存在する。
2015年、アメリカ・テキサス州でムスリムの少年が冤罪で逮捕された事件が起きた。工作が得意であった少年は、手作りの時計を学校に持って行った。その時計を爆弾だと勘違いした教師が警察に通報し、少年が逮捕されてしまったのである。
この逮捕が人種的偏見に基づく冤罪であると発覚した途端、少年に対する扱いはひっくり返った。ヒラリー・クリントンは少年に応援のコメントを送り、数々のセレブやNASAが少年を招待するコメントを送り、Facebook(現Meta)のCEOマーク・ザッカーバーグは少年をFacebook本社に招待し、当時のオバマ大統領は「これはとてもかっこいい時計だ。ホワイトハウスに持ってこないか?アメリカは君のようにもっと科学に興味を持つ子どもだちを育てるべきだ」と、少年をホワイトハウスに招待した。
アメリカ社会全体が「正しさアピール」をすることに躍起になった。ただし、それは消極的正しさアピールである。ムスリムの人々への差別意識(本音)をうっかり露呈させてしまったために、後ろめたさから「正しさアピール(建前)」をせざるを得なくなったのである。
これは8年前に起きた事件だが、当時このニュースを知ってから今に至るまで、ずっと頭の片隅に残り続けていた。
冤罪が発覚した途端、手のひらを返し、エスタブリッシュメントたちが競うように「正しさアピール」に躍起になる社会を見て、犯罪者からヒーローへと祭り上げられた少年は何を思ったのだろうか。
「正しさアピール」を目にする度に私はこの少年のことを思い出す。
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