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HONDA JET開発者インタビュー:日本のデザイン2010再録

2010年、「日本のデザイン2010」という企画で、六本木ミッドタウンのデザインHUBで展示を行いました。今回の「秋水とM-02J」展にはその展示の続き、という側面もありますので、当時モリナガ・ヨウさん、松浦晋也さんと取材した記事を、11年ぶりに再録します。(肩書、内容などは当時のものです)

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イラスト モリナガ・ヨウ

2010年2月8日 青山 本田技研工業株式会社本社にて

絶対航空機をやりたい、というわけではなかったんですよ。航空学科は優秀な学生が来ますから、そういう切磋琢磨できるところで勉強したかったんです。(藤野道格)

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藤野道格 (ふじのみちまさ)
Honda 執行役員 :ホンダ・エアクラフト・カンパニー 社長兼CEO

■自動車の開発で入ったはずなのに・・・

※挨拶のあと、「こんな機会もそうそうないんで」と、八谷はオープンスカイで作っている自作機の説明をした。

藤野:これはジェットエンジンの上にパイロットが乗るんですか。すごいですね。

八谷:コンセプトジェットですから。量産は考えていないのでこの設計になっています。藤野さんのことは以前から一方的に知っていました。「すごい人がいるな」って常々思っていたので、本日お会いできて光栄です。

藤野:ありがとうございます。

八谷:今回MRJとホンダジェットを取り上げるつもりなんですが、作り方のアプローチがだいぶ違いますよね。ホンダジェットはアメリカで開発してますが、それは最も効率の良い、堅実な開発手法をとっているように見えます。一方、MRJは国産にこだわり、国内で生産と認証を取ろうとしている。どちらも応援したい気持ちがありますが、まずは藤野さんがホンダジェットの開発に携わるようになった経緯からお聞きしたいと思います。

藤野:1984年入社で研究所に配属になりました。最初は車の研究をしましたが、やがて航空機の開発に映りました。

八谷:大学の研究室は東京大学航空学科の加藤寛一郎先生のところですよね。ホンダに入るにあたって航空機に未練はなかったのですか、

藤野:絶対航空機をやりたい、というわけではなかったんですよ。航空学科は優秀な学生が来ますから、そういう切磋琢磨できるところで勉強したかったんです。それと、日本の航空産業って基本的に下請けなんです。プロダクトデザインをするというよりも、誰かの考えたものを作るという形になっている。一方自動車は、自分たちのリスクで自分たちで考えて、商品を作っていく。それで全世界と戦いながらビジネスを展開している。コンセプトから売るところまでできるのは自動車会社ぐらいかなと思って、ホンダに入社しました。そして、一年半ぐらい自動車の仕事をしていたのですが、上司に言われて航空機を開発することになりました。

八谷:その時の気持ちはどんなものだったんですか。

藤野:入社時点で飛行機をやる気はあまりなかったんです。車の研究が面白くなりかけた時期だったので、一度は「いいです、自動車をやります」と断っています。しかし会社の人事は個人の意志では決まらないから、結局異動を受け入れました。

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本社一階ショールームのホンダジェット模型

■作る技術を学ぶために、MH02を作った。


八谷:異動後すぐにアメリカに行ったんですか。

藤野:3ヶ月ぐらい準備して、5人がミシシッピに移りました。当時私は24歳、一番年上が38歳だったかな。

八谷:ミシシッピ州立大学と共同研究という形だったんでしょうか。

藤野:形としてはそうです。実際は大学の敷地の中にホンダの建物を建てて、コンセプトや設計をホンダのチームが考え、大学のインフラを使わせてもらうという形でした、

八谷:そうして最初に作ったのが、MH02ですか?

藤野:そうです。MH02は、ATPエンジンと機体の両方をを作るというもので始まりました・

八谷:MH02はツインリンクもてぎのファンファンラボに展示されてますよね。会場で見たのですが実際に機体に乗れるようになっていて感動しました。

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藤野:あれは、飛行機を作る技術を学ぶために一機だけ作ったものです。僕らは飛行機を作るプロセスがよく分かっていなかったんです。例えば風洞試験で1/6の空力特性を取得したとしても、やはり実機とは違うんです。実機と比較して補正が必要なんです。どれぐらい補正すればいいのかというのはかなりのノウハウで、経験的な要素が大きいんです。
 同じ事はコンピューターシミュレーションでも言えます。あるいは「ここを設計変更すると別のところに影響する」といったことは、実際に機体を作ってみなければ分からない。それをMH02で学んだわけです。

八谷:ホンダジェットはいつごろから考えていたのですか。

藤野:1995年ですね。それから2年間はどのクラスの機体を作るかとか速度はどの程度にするかとか、一人あたりの空間はどうするかといったことを詰めていきました。そういう要件を詰めていかないと、設計ができないんです。今のコンセプトスケッチが固まったのが1997年。それから1999年にかけて風洞試験を行って形を決めていきました。

八谷:本社一階ショールームに展示してある藤野さんのスケッチは、すでに翼の上にエンジンがありますね。1997年にはすでに決まっていたわけですか。

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藤野:そうです。

八谷:あそこにエンジンを付けるとフラッターが出るんじゃないかとか色々な問題がでるんじゃないかと思うのですがどうなんでしょうか。

藤野:よくご存じですね。MH02の時に、飛行機を設計するのに基本的な技術を学んでいましたから、あの配置の問題点は分かっていました。それをひとつひとつつぶしていったわけです。あの配置によってキャビンを広くできます。そこから始めて、発生するペナルティを減らしていこうと考えたわけです。トータルではプラスに出来る見通しがあったんです。それに2年かかったわけですね。

■ひとつのコンセプトに、集中させる。

八谷:開発チーム構成はどんなものだったんでしょう。

藤野:一応、空力、構造、システムということになっていますが、ミシシッピに行った頃は人数が少なかったので、皆何でもやりました。普通の航空機メーカーは構造なら構造だけやってきて、マネジメントをやる段になって他の分野を勉強することになります。
 昔のボーイングなどでは、チーフエンジニアがすべてを知り、すべての決定をしていました。ホンダジェットでやりたかったのは、一つのコンセプトに従って、すべてを統合して一番良い決定をするというやりかたです。

八谷:合議制じゃないんですね。感動しました。やっぱりこれは藤野さんの飛行機なんだ、と。チーフエンジニアとしてすべてを決めていったわけですね。

藤野:そうです。

八谷:航空機にとってエンジンは大きな要素ですけれど、1997年時点ではホンダのエンジンはまだ完成してませんよね。他のエンジンも考慮していたんでしょうか。

藤野:あの時期は、社内にも色々な意見がありましたから、機体の提案時点では他のエンジンも選択肢に入れる形にしていました。しかしエンジンチームも頑張っていましたから、最後はエンジンに合わせて機体を設計し直しています。

八谷:エンジンは和光で作っているのですか。

藤野:そうです。日本とアメリカを往復してすりあわせてきました。

八谷:大変ではなかったですか?例えばできてきたエンジンがダメだったら、機体設計の目論見も大幅に狂ってきてしまう・・・

藤野:それは、エンジンチームを信頼するしかないわけですよ。

八谷:今はエンジンはGEとエンジンのジョイントベンチャーをやっていますが、その社長も藤野さんが?

藤野:いえ、それはGEの方がやっています。

八谷:エンジンをアメリカで製造する理由は、市場に近いところでメンテナンス業務を容易にするという意味があるのでしょうか。

藤野:それもありますが認定ですね。航空機の場合は認定が非常に大きな問題です。GEは小さなエンジンの経験がないですし、コンシューマープロダクトの経験もない。逆にホンダはジェットエンジン製造の経験はありますが、認定をうけたことがない。

八谷:初飛行は2002年だったそうですが、設計が固まってから初飛行までが非常に短かい気がするのですが。

藤野:3年かかっています。1999年に風洞試験などで空力形状が決まったので、その後にシステムや構造を設計します。システムは機体に積む前に試験をするので、それらに3年かかっています。機体ができてからもタキシング試験をして12月に飛んでいます。3年というのはまあまあ、早いですね。

八谷:ぼくらも自分でやっていますから分かりますけれど、設計後の製造、初飛行に3年はずいぶん早いと感じます。

藤野:航空機業界の問題として、サイクルが長いんですよ。それに比べると今回のホンダは早いです。飛行機の場合、ひとつの部品でも、重量は大丈夫かから始まって強度はどうか、とか表面処理はどうかとか、すべてクリアして始めて図面が完成するんですよ。自動車だと、壊れたから補強するということをしますけれど、飛行機ではそういうことはできませんから。

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■人垣が割れたホンダジェットのデビュー

八谷:初飛行を大々的に発表しなかったのはなぜですか。タキシング試験も一切見せていなかったですよね。

藤野:ホンダの場合、プロダクトの開発は秘密にしています。それに飛行と事業化は別ですから…社内でも「初飛行で事業化すると思われると困る」という声はありましたし。

八谷:厳しいですね。でも藤野さんとしては、もちろん量産したいと思っていたわけですよね。

藤野:そうです。

八谷:オシコシエアショー※1で2005年に公開していますが、それまでの2年間はなにをしていたんでしょうか。

藤野:設計通りに出来ているかどうかの確認試験です。最高速、到達高度、燃費、室内騒音などを調べていました。

八谷:オシコシのエアショーで初の一般公開というのは理由があったんですか。

藤野:私も若いときからアメリカに行く機会があって、飛行機を自分で作る人たちがいっぱいいることを知ったんですね。オシコシには飛行機が大好きな人が一杯あつまってくる。買ってはくれないかもしれないけれど、そういう人たちは応援してくれると思ったんです。

八谷:反応はどうでした?

藤野:あまり事前に宣伝せずに、フライインしたんです。場内にホンダジェットが来るという、アナウンスがあったら、タクシーウエイに1000人ぐらいがうわっと集まってきて、そこにホンダジェットが入っていくと、モーゼの出エジプトみたいにわっと人垣が割れて、そこにホンダジェットが入っていったんです。あれはエキサイティングな経験でした。

八谷:すばらしいですね。そういえば機体に最初に乗ったのはいつでしたか?

藤野:初飛行から5ヶ月ぐらいでしょうか。試験の日程はかっちりきまっているので、その合間を縫うようにし操縦桿を握りました。
 シミュレーターに乗っていましたから、その通りだなと思った部分と、操縦席について周りの空間を見て、こうやって作れたか、という感覚を持ちました

八谷:試験の時は専門のテストパイロットがいるわけですよね。

藤野:そうです。それもビジネスジェットのハンドリング、操縦桿への反応をどうするということが分かっている人がいます。

八谷:2006年のオシコシで生産・販売を発表しましたが、そのいきさつをお話出来る範囲でお願いします。

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藤野:2005年での反響を見る前は、社内的に「ビジネスにするのは難しいんじゃないか」という反応が大半でした。2005年の時はトップもオシコシに来て熱狂を見ているわけで「藤野のいっているのことは本当かも」ということになってきました。それとね「欲しい」という問い合わせが来るわけですよ。それやこれやで2006年の3月に当時の福井社長がゴーサインを出して、オシコシの発表に向けて準備をしました。受注開始はNBAA(National Business Aviation Association)で開始しましたけれど、本当に飛行機が好きで、あこがれていて、ホンダジェットを待っている人たちにの前で発表をしたかったんです。
 2005年の時に、素晴らしいとかサインをくれないかとか、やってきた人がいたんですよ。だから「オシコシに帰ってきたよ」という形にしたかったんです。
 それとビジネス面では、オシコシで発表しておけば、一ヶ月半後のNBAAでは買いたいお客さんの準備もできるだろうと考えたわけです。思惑はあたってお客さんが列を作りました。
 2006年までは常々実験機ですと言い続けていたわけで、もう実験機といわなくてすむと思ってうれしかったです。

※1 オシコシエアショー
ウィスコンシン州オシコシで開催されるEAAエアベンチャー (EAA AirVenture Oshkosh)のこと 。世界最大の自作機の祭典で、アメリカ全土から参加者が自作機を持ち寄って披露しあう。

■ 型式取得の困難さ。

八谷:FAA型式※2の認定作業はどうなっているんでしょう。

藤野:現在進行中です、FAAの審査は図面単位でして、図面が認定されて、部品を作ってその部品が図面通りであるであることを認定して、というプロセスで最初は4年5年はかかります。
 昔は非常にラフで日本で形式認定を通れば、バイラテラルでアメリカではOKだったんですけれど、今はアメリカはアメリカで取らないとダメです。

八谷:欧州の型式認定、イアッサ(EASA) の基準を満たすのはどうなんでしょう。

藤野:大変です。欧州の基準は自家用機の基準に一部旅客機の基準も入っています。しかも欧州では各国の基準とのすりあわせをやらねばならないです。ホンダとアメリカと欧州との三者で進めていますが、やはり大変です。

八谷:デリバリーは2010年…ですか?

藤野:昨年の段階で、2011年末に延期しています。まずアメリカで売ります。アメリカでのバックオーダーが大きいので、欧州は1年後とかに数機出すという形になるでしょう、

八谷:日本でもホンダジェットをぜひ見たいのですが、日本では販売しないのですか。

藤野:日本は市場が小さいので、まずはアメリカなどマスマーケットを押さえるのが先決だと思っていますが、アメリカのナンバーで日本で運用するなどして、日本の人にも機体を見てもらいたいとは思っています。

八谷:継続性は考えていますか。YS-11は1機種で終わってしまいましたけれど。

藤野:開発アイテムはお話しできませんけれど、継続性は考えています。

八谷:個人的にエクリプス400みたいな単発の下位機種が出たら、と思うのですが、そのへんはどう考えます?

藤野:ビジネスジェットの場合は仕事の道具ですから、双発が絶対条件なんです。ただ、そういう人でもプロペラ機には単発でも乗っている。プロペラの信頼性は(ジェットより)ずっと低いのですけれどね。エンジンが一つということに先入観があるだけで、正直可能性はあると思っています。
 既存の単発ジェット機はエンジンの配置がまだ最適化されていないなと見ています。一番考えねばならないのはエンジンのローターがバーストして吹き飛んだ場合にも墜落しない設計をすることです。それがきちんとできれば信頼性も上がるので、固定観念を払拭する設計ができれば、可能性はあると思います。

八谷:小さい機体は見てみたいですね。それでも1〜2億ぐらいはするでしょうけれど。

藤野:個人的には、単発機のデザインを色々と考えていますよ。

※2 FAA型式の認定
機体の耐空性に関してアメリカ連邦航空局(Federal Aviation Administration)が定める基準に適合した証明を得ること。これを得ないと、航空機を販売用途に製造することが出来ない。


■ 藤野さんが考える、日本の強みと課題。

八谷:アイデアだけでもいつか見てみたいです! 僕が思うにホンダジェットはビジネスとして成立させているところがまずすごいと思うのですが、将来的に日本の製造業の飯の種として航空機を日本で生産することはありえるでしょうか。

藤野:ホンダジェットは、需要のある現地で調達するということでやっています。でもやってみると、納期や品質など必ずしも100%満足できるものではないです。部品によっては、日本のサプライヤーのほうが質が高いです。それが世界で認められるようになれば可能性はあると思います。技術と物作り、納期、継続的な向上という面で日本の製造業にはポテンシャルはあります。しかし、ある飛行機の一部分だけをやっているだけでは、だめでしょう。商品を理解してトータルとして仕事をマネジメントできるようにならないといけない。

八谷:草の根のゼネラルアビエーションという点ではどうでしょうか?今や日本は飛行場があまっちゃっているわけですけれど。

藤野:アメリカは飛行機に対する一般の距離感が近いですよ。自分は大学で航空工学を学んでいたけれども、飛行機にさわったことも自分で乗ったこともなかった。ホンダに入ってアメリカに行って初めて飛行機に触れたんです。なにしろ柵一つしかない飛行場から飛行機が飛び立つのを子どもが見ているわけです。あるいは近所の裏庭では、趣味で飛行機を作っていたりする。
 日本でも必要なのは、飛行機と人々の間にあるバリアを取り払うことだと思います。自動車がそうであるように。
日本では研究者の方と話しても、オシコシに来る一般人ほどにも飛行機を知らない場合があります。それでは研究対象であっても、商品にはならないでしょう。

 例えば、日本ではピックアップトラックを格好よく見えませんよね。でもアメリカで暮らして毎日見ていると格好良く見えてくる。飛行機もきちんと生活の中に浸透していって、はじめてビジネスとして見えてくるものがあるんだと思っています。
 今の日本のような、免許を取るのに300万円、年間維持費が300万円というような状態はたくさんの人が入ってくることで、徐々に徐々に変わっていくしかないんじゃないかと思っています。


(2010年2月8日 青山 本田技研工業株式会社本社にて)

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