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NBAのNo.8 KOBE BRYANT

みなさん、こんにちは。

ハチです。

日本人初のドラフトNBA選手として活躍中での八村塁選手の背番号はもちろん「8」番というのはみなさんもよくご存知かと思います。ワシントン・ウィザーズに入団時に、記者から8番を希望した理由について求められた際に「言わなくても分かるでしょう(笑)」と回答していました。ちなみに高校時代の明成高校でも8番を付けている。

(私も自分の名前に漢字の「八」が入っており、なおかつ同じ富山県出身ということもあり、勝手に親近感を覚えています笑)

最も偉大な「8」番

さてプロ選手である以上、背番号を含めた自分のブランディグや個性もプレイと同様に重要なNBAですが、背番号「8」で忘れられない選手にロサンゼルス・レイカーズで5度の優勝に導いたコービー・ブライアントさん(以下、普段呼ばせていただいている親しみを込めて「コ―ビー」と記載させていただきます)です。

他にも背番号「8」番のNBA選手について、僕らの世代ではコーチの首絞め事件をお越したこともある元ニューヨーク・ニックスラトレル・スプリーウェル、USA代表経験もある元アトランタ・ホークススティーブ・スミス、現役選手ではスラムダンクコンテスト王者のシカゴ・ブルズザック・ラビーン選手、今年急成長のブルックリン・ネッツスペンサー・ディンウィンディー選手(※後日のコービー死去に伴い、背番号は「26」番に変更)などが挙げられますが、NBAを超えた世界的なインパクトを与えた選手はコービーを置いて他にはいないです。

みなさんもご存知かと思いますが、1月27日にコービー、コービーの娘のジアナさんを含む9名がヘリコプターの墜落事故でお亡くなりになられたニュースは世界中を駆け巡りました。その後、NBAは試合やニュースを含めてコービーやその他ご家族がなくなった悲しみや哀悼の意を示す期間となりました。私もコービーが亡くなった2,3日間は、常に頭の中にそのニュースがよぎりながら生活をしていました。その後、コービーに捧げるためのようなあ白熱したNBAオールスター・ウィークエンドが開催され、先日2月24日にはステイプルズ・センターで告別式が行われ、約1ヶ月が経過しました。

八村選手をはじめ、私達日本人にも大きな影響を与えたコービーについて今回は書きたいと思います。もちろん、コービーさんのプロフィールや色々な伝説的なプレイ・エピソードは既に色々なメディアやYouTubeなどの動画で紹介されていますので、私が特に影響を受けた学生時代、コービーが背番号「8」時代(1996年〜2006年)を付けていた時代を中心にふりかりたいと思います。(コービーさんはキャリア後半の10年間は「24」番を付けており、「8」番と「24」番はレイカーズの永久欠番となっています)

野心を持った憎らしい若武者

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私がNBAを見始めたのは、中学校2年生となった1999-2000年シーズンからです。当時私は野球部でしたが、中学校のバスケ部との友人からNBAを教えてもらい、即その圧倒的なスケール感に魅了され、食い入るよう深夜放送のNHK-BS1のNBA中継を観ていました。(何度、そのままこたつで寝たまま朝をむかえ、家族に怒られたことか、、笑)

つまりシャック&コービーの3連覇の初優勝シーズンが私のNBAデビューとなりました。当時の私が応援していたチームは、そのシーズンの開幕戦そしてNBA JAPAN GAMESで来日していた魔術師ジェイソン・ウィリアムズが所属するサクラメント・キングスであり、最強レイカーズは立ちはだかるまさに壁でした。その時のコービーの印象を象徴する1枚が、以前購入した米国・SLAM紙の25周年記念号に載っていた上記カバー写真です。

キャリア中盤〜終盤はスキンヘッドで、プレイ中大量の汗をかきながらもスマートなプレイをしていた印象のコービーですが、キャリア序盤の若かりし頃は「ミニアフロ」のコービーの印象が強烈でした。そしてこの不敵な微笑みです。

「誰にだって挑戦してやる」「俺がベストだ」という勝ち気で積極的な性格・姿勢については今思うと尊敬すべきプロフェッショナルですが、当時キングズを応援する中学生の私には「最後に勝たせてくれない、憎らしい存在」でした。ですのでどうしても当時は、スコッティ・ピッペン率いるポートランド・トレイルブレイザーズや、NBAファイナルで対戦するレジー・ミラー率いるインディアナ・ペイサーズ、翌年のアレン・アイバーソン率いるフィラデルフィア・セブンティーンシクサーズなどに「レイカーズを倒してほしい」と思い、レイカーズの敵となるチームを応援していた記憶があります。それは、私が田舎育ちであり、小さなマーケットのチームがニュースターを中心に結束力で上り詰めるチームに共感する一方、大都会ロサンゼルスで当時無敵のシャックに加えてコービーを抱えるレイカーズに対して嫉妬していたからという部分もあるとは思いますが。

「ネクスト・ジョーダンは誰だ!?」

また、この当時の優勝レース以外の関心事では「誰がネクスト・ジューダンになるのか?」という話題でした。1997-1998シーズンに2度目の引退をしたマイケル・ジューダンの次の世代を誰が引っ張っていくのか、NBAの優勝争いだけでなく、ビジネスやブランドとしても「NBAの顔」になるのは誰になるのかという議論が続いていました。私はシカゴ・ブルズ時代のジョーダンの現役時代はリアルタイムで観ていない世代でしたが、この頃購入し始めたNBAの月刊誌「DUNK SHOOT(ダンクシュート)」の特集もこの話題のことが多かったです。

さて、当時ネクスト・ジョーダンの候補に挙がり、コービーのライバルとなった5選手たちを紹介したいと思います。今回はコービーと同じ世代で、点取り屋(スコアラー)のポジションだった選手を今回ピックアップしました。

アレン・アイバーソン(フィラデルフィア・セブンティーンシクサーズ等)

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「NBA史上最も身長の低い得点王」となったアイバーソン。「身長の高さで勝負しているんじゃない、ハートのデカさで勝負しているんだ」という名言を残し、編み込みの髪型(コーンロー)、タトゥーやファッションなどで今のNBAカルチャーにも大きな影響を与えた小さな巨人です。1996年のNBAドラフトでアイバーソン(1位)はコービー(13位)は同期ということもあり、コービーはアイバーソンのことを相当意識していたそうです。

ビンス・カーター(トロント・ラプターズ等)

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今年ラストシーズンと噂されており、4つの年代(1999年代、2000年代、2010年代、2020年代)をプレイした唯一の選手。ビンスといえば、2000年のスラムダンクコンテストでの圧巻のダンクやシドニーオリンピックでの218cmの長身選手を飛び越える「人超えダンク」などで一躍スターに躍り出ました。ダンクのイメージやジョーダンと同じノースカロライナ大学出身などの要因でネクストジューダン候補に呼ばれました。一方、豪快なプレイスタイルな割にはコービーと正反対の温厚な性格だと言われています。

トレイシー・マグレディ(オーランド・マジック等)

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「T-MAC」の愛称で、ビンス・カーターの従兄弟であるマグレディは身体能力などのポテンシャルでは一番大きな可能性を秘めたプレイヤーでした。コービーと同じく得点王を2回獲り、ヒューストン・ロケッツ時代に「NBA史上最大の逆転劇」と呼ばれる「ゲーム残り33秒間に13得点」を一人で成し遂げました。

ポール・ピアース(ボストン・セルティックス等)

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NBA創設時から最多優勝優勝回を争うレイカーズの永遠のライバルであるボストン・セルティックスの2000年代を支え、2007-2008年にBIG3体制でコービー率いるレイカーズを倒しNBA王者に導いたエース。ピアースはロサンゼルス出身であり、入団前はレイカーズに入りたかったそうです。チーム的にもコービーの倒すべき相手であり、コービーの自書「MANBA MENTALITY(マンバメンタリティ)」でも「ポール・ピアースは最も抑えにくいプレイヤーの一人だ」と語っています。

ネクストジョーダンから約20年後

では、あのときライバルと呼ばれていた5人のプレイヤーのキャリアはどうなったのでしょうか?彼らを「スコアラー」という切り口で比較するためにキャリア年数別の「出場時間」、「得点数」、「FG%」の3つのグラフを作ってみました。(データ参照先は、NBA Statsを参照しています)

時間

得点

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コービーはどのスタッツも長い期間、高いパフォーマンスを発揮しています。特にキャリア10年目以降も25点以上の平均得点をあげています。出場時間もアイバーソンを除いて、10年目を変わり目に減少傾向にあります。また、効率が悪いとされていたFGも最後の3年を除いては、45%近くの確率を残しており、よりジャンプシュートを中心にスマートにプレイしていたことが分かります。

コ―ビーとビンスはキャリア20年を超えていますが、カーターはキャリア12年目のオーランド・マジック移籍以降は出場時間が徐々に落ち出し、役割もロールプレイヤー(スター選手ではなく、限られた時間でチームに必要な役割を果たす選手)として生き残っていきました。

ポール・ピアースはセルティックスに15シーズン在籍していた時は中心選手でしたが、キャリア終盤の3チームでは「ゲームの勝負所で力を発揮するベテラン・メンター」という存在でした。

T-MACはその爆発的な得点能力を持ちつつも、膝の怪我で十分な時間プレイをすることができませんでした。ただ、引退後には米国独立リーグの野球選手に挑戦するなど、「野球」の面ではジョーダンに最も近づいたのかもしれません。

アイバーソンはキャリア終盤まで平均40分以上出場し「中心選手」として活躍する選手でした。デンバー・ナゲッツでは若き点取り屋のカーメロ・アンソニーという相棒を携えて再度NBAの頂点を目指しましたが、優勝には届きませんでした。

公平な数字の切り取り方ではないかもしれませんが、5人の中でもコービーが最もチームの中心選手として、長く活躍し続けた選手のではないかとネクスト・ジョーダン議論が始まった20年間をふりかえると感じます。また、一番のエースの評価軸である「チームを勝たせる」優勝回数もコービーは5回、ピアースは1回、アイバーソンは2000-2001年にNBA finalに出場もレイカーズに破れ、ビンス、T-MACはNBA finalにすらたどり着いていません(ビンスはまだ現役なので可能性は0ではないのだが、今シーズンはほぼ厳しい汗)

あの当時、「シャックがいたから優勝できた」と思っていた中学生の自分もいましたが、コービーがファーストオプションとなった2008-2009、2009-2010年シーズンは2連覇していますし、同世代で同じ5回優勝しているのはサンアントニオ・スパーズティム・ダンカンのみです。

最初で最後のチャンスだったステイプルズ・センター

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実は、私は一度だけ現地でコービーを見るチャンスがありました。2015年2月(上記のグラフのキャリア19年目)にロサンゼルスに滞在する機会があり、レイカーズとオクラホマシティ・サンダーの試合を本拠地のステイプルズセンターに見に行った。しかし、コービーは1月末に右肩を負傷し、試合数日前に残りシーズンを休むとのニュースが入ってきました。正直なところその当時のレイカーズも弱かったので、コービーのプレイよりもフランチャイズの歴史やアリーナの雰囲気を楽しむこと、そして当時の2大エースだったケビン・デュラント(KD)とラッセル・ウェストブルック(ラス)のいるサンダーを目当てで観戦に行きました。しかし、コービーだけでなく、KDとラスも怪我で欠場となり、試合はエースのいない”凡戦”で終わりました(涙)

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私と同じ気持ちなのか、近くの席にいた男性の方が

”Kobe, I miss you !!(コービー、君が出場しない試合は寂しい)”

と叫んでいました。今思うと、この時がコービーのプレイを見る最初で最後のチャンスになるとは当時は思っていはいませんでした。幾多の怪我を乗り越えてきたコービーでしたし、私の仕事柄、年に1回程度はアメリカに行ってましたので、「40歳ぐらいまでコービーなら引退しないはずだ」と高を括っていました。ただ、ゲームに出場していなくてもコービーの存在感はステイプルズ・センターで感じることができました。

マイケル・ジョーダンとの関係

今回は私が学生時代に観ていたネクスト・ジョーダン世代を切り口でふりかえってみましたが、実際のコービーとジョーダンの関係はどうだったのでしょうか。コービーは現役時代に「次のマイケル・ジューダンになりたくない。俺はただ、コービー・ブライアントでありたいんだ」という言葉を発言していました。また、1998年NBAオールスターでのジョーダンとの1on1など「ジューダンに立ち向かっていく」というイメージをお持ちの方は多いと思います。

しかし、先月2月24日での告別式でのジョーダンのスピーチでは、コービーとの親しい関係や選手としてコービーを認め、尊敬する存在であったと語っています。(日本語翻訳された動画がありますので、まだ観られていない方はぜひご覧ください)

ジョーダンも語っていますが、「激しい闘争心」「目標のためにいかなる犠牲も払う努力する姿勢」などはコービーが自ら付けたニックネーム「ブラックマンバ」にちなんで「マンバメンタリティ」と呼ばれています。選手としての成績だけでなく、ネクスト・ジョーダン世代で強烈にコービーの個性を現役のNBA選手や地球の裏側にいる日本のファンたちにも影響を与えたことが、一番のコービーのレガシーだと私は感じています。

「つらく、やりたくないと思うときに、コービーならどうするのか」

コービーのプレイを思い出すと、できる限りの努力をしようと、少し力が湧く自分がいます。

背番号「8」を受け継ぐ者

長くなってしまいましたが、コービーがキャリア前半の10年間を付けた背番号「8」番ですが、実は八村選手だけでなく、他の日本人も「8」を背負っています。メンフィス・グリズリーズ渡邉雄太選手も今シーズンは「18」番に変更(昨シーズン着用していた12番は、現在新人王候補のジャ・モラント選手が使用)、Gリーグのテキサス・レジェンズ馬場雄大選手も「18」番を着用しています。二人もコービーがなくなった際には、ショックを隠し切れないツイートをしていました。渡辺雄太選手は自著「「好き」を力にする NBAプレーヤーになるために僕が続けてきたこと」でも、「好きなNBA選手はコービー・ブライアント」と答えていますし、馬場選手も2月はレジェンズの先発に定着し、好調なシューティングについても「僕の中にコービーがいると思うんです」とインタビューで語っていました。

八村選手を加えた3人の日本人選手が、コービーのように思う存分バスケを楽しみ、NBAで長く活躍することを願っています。

そして、まだまだこれからのビジネスや家族との時間をたくさん過ごすはずだったコービーやジアナさん。私も3人も娘がいるため、コービーがどれだけ無念な気持ちだったのか、想像に耐えません。

今回の事故に遭われてしまったご家族の方々にご冥福をお祈ります。

最後は感謝の気持ちで締めくくりたいと思います、

「ありがとう、コービー」

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