17/12/08 魔嬢をメンテナンスするだけ 作:はちみつ

 最後の皿を拭き終えるのと、マスターがにこやかな笑顔で台所に入ってくるのは同時だった。
 今日もまた平穏な一日が終わろうとしている。私は食器を洗いつつマスターが午後に語った与太話を振り返っていた。
 まさかあそこで第3代ローマ皇帝が大気圏へ突入するとは、この私でもシミュレート出来なかった。
 この調子では明日はどの書物に自己を委ね、どんな作り話を持ち帰ってくるのやら。
 そんなことを考えながら片づけを終えた私にマスターは朗らかにお願いをする。
 細く白い両手にはまるで似合わないスパナとドライバー。
「Ⅱ号機、メンテナンスの時間よ」
 平穏な一日の締めくくりが始まろうとしていた。私はエプロンを外す。

「自分でやるわ」
「私がやりたいの」
 不要だから拒絶する私と不要でも要求する彼女。何度か繰り返して、最後は主従関係を尊重し私が折れる。
 場所は変わってマスターの寝室。ベッドとひとつの本棚以外何もない簡素な部屋だ。
 ふかふかのベッドを汚さないようビニールシートを敷いてから二人で座る。
 周囲を油差し、レンチ、ニッパー、ペンチにごて、そしてたっぷりのネジが埋めつくす。
 間違っても女性の寝室に相応しいインテリアとは言えない。
「はい、後ろ向いて。どこか調子悪いところあるかしら?」
「何も。私は常に完璧よ」
 じゃあいつもどおりね、とマスターが答えて両翼の中間点を蓋みたいに開く。
 そこには科学の結晶と魔術の極致が混在する精密部品の数々とそれらを繋げる配線が密集している。
 最新のメカニックだろうと最古の魔術師だろうと複雑さに眩暈を起こす私の内部を、マスターは慣れた手つきでいじっていく。
「ペンチ入れるわよー何かあったら右手上げてねー」
「Ⅱ号機、ちょっとオイルが多い気が……漏れてはいないわね。ならこっちかしら」
「ちょっと溶接するから熱いの我慢してね」
 彼女は決して機械が得意ではない。むしろ苦手で、この前は電気ストーブの延長機能が分からず凍えていたぐらいだ。
 ボタンを押せばいいだけの機械も扱えない人間が、オーパーツに片足をつっこんでいる私の整備を難なくこなす。
 客観的には奇妙だと思えるだろうが、実際はそうでもない。
 毎日やっているだけだ。彼女が両手でやっとドライバーを握れるぐらいの頃から毎日、毎日。
「あちゃっ」
 そして如何な熟練者にも凡ミスはつきものだ。肉をわずかに焼く音が耳に届いた。

 動けない私は声だけで彼女に呼びかける。
「マスター!」
「ちょっと動力炉に触れただけ。いいから動かないで、もう終わるから」
「そのちょっとがマスターにとっては致命傷になるかもしれないの。あなたは普通よりずっと脆いのだから」
「そうね。頑丈な貴女とは大違い」
 諫めるつもり軽い忠告を穏やかに流され、人心回路に変化が生じる。人間的に言うならば少しムッとなった。
「だから自分でやるといつも言っているのよ。私なら怪我なんてしないし、傷ついても直せばいい。わざわざマスターがメンテナンスする必要なんてどこにもない」
「それなら私もいつも言っているでしょう? 私がやりたいんだって」
 やけどしただろう指はしかし速度も精度も落とさず、休むことなく私に触れる。
 器具越しでありながらその感触は撫でられるよう。
「貴女の言う通り。私はとても脆い人間よ。右足はないし、寝たきりだって珍しくない。完璧な機械に支えてもらわなきゃ、とてもじゃないけど生きていられないわ」
 だからね、と背中の蓋を閉める彼女。振り向こうとすると、わずかに汗ばんだ両手に頬を包まれた。
 毎日私を整備してなお白く、折れそうなほどに細い指。
「知っていたいのよ、Ⅱ号機を。こう造られているんだ、こう動いているんだ、こうやって―――私を助けてくれる貴女は生きているんだ、って」
「人間らしい感傷ね」
「ええ。機械の貴女とは違うの」
 両手が離れる。まだ整備は終わらない。今度は背中下部を開かれながら、私は不要な要求を受け入れると決定した。
 今夜も、おそらくは明日も。

 そして使い終わった整備器具を片付けビニールシートもたたんだ頃。
「マスター。指」
「あら、汚れちゃったわね」
 彼女の両手はオイルで真っ黒に染まっていた。
 私の中に手をつっこめば当然こうなる。今さら何を「あら」と驚くことがあるのか。
「オイルの汚れってなかなか落ちないのよね……お風呂は入っちゃったし……」
 全くどこまでもわざとらしい。もう夜も遅い。これ以上は明日の彼女に支障をきたす。
 私は会話を続けようとせず、ずかずかと彼女に近づいてそのオイルにまみれた手を掴んだ。そして。
 ちゅぱ。
 人差し指をくわえた。
「汚いわよ?」
「人間にはね。機械の私にはいい夜食だわ」
「それもそうね。じゃあお願いできる?」
「ええ。私の体をさんざんいじくった代償、その十の指に贖ってもらうわ」
 平穏な一日、その締めくくりが閉じていく。
 一から十まで―――少し違うやりとりもあったけれど―――概ねいつもどおりの終わり。
 ならば明日もいつもどおり平穏だろう。さて、明日の第3代ローマ皇帝は目の前の彼女にどんな目に遭わされるだろうか?
 益体もない想像を膨らませながら私の舌は右手中指に移った。残りの夜食はあと8本。

(本当のところ、これをしたいから私のお願い聞いてくれてるのかしら……)
「マスター、何か?(チュパチュパチュパチュパ)」
「ううん。なんでも」

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