天空寺タケルとはデカルトの刺客である~西洋哲学から見る仮面ライダーゴースト~

本記事は『仮面ライダーゴースト』の骨子に、デカルトを中心に据えた西洋哲学のエッセンスが多分に含まれていると主張するものである。
主人公はデカルトが自説の権威を奪回すべく平成の世に送り込んだ「刺客」であり、敵対するは偉大なるプラトンを誤読した「イデアの妄信者」———そのような対立構造がこの作品には隠れていると、筆者は想像した。

本文には当然ながら『仮面ライダーゴースト』のありとあらゆるネタバレがあるので、未視聴の方はブラウザを閉じるなりタスクキルなりしてほしい。
また、筆者は聞きかじった知識しかもたない一般人である。参考文献の読み違い、記憶違い、論理の破綻etc……さまざまあるだろうが、そもそも仮面ライダーに西洋哲学を練りこもうと画策する時点で荒唐無稽だ。寛大な心で受け止めていただければありがたい。


要旨

2019年12月、遅ればせながら『仮面ライダーゴースト』を完走した。
謎の怪人・眼魔に殺された天空寺タケル(以下タケル)が生き返るために仮面ライダーゴースト(以下ゴースト)として戦いに身を投じる。タケルは英雄の魂が込められた眼魂(アイコン)をとおして人から人へと受け継がれてきた想いを受けとり、「人間の可能性は無限大だ」という答えを得る……歴史を強く意識した人間賛歌の作品だったというのが、とりあえずの総評になるだろう。

それだけで終われればよかったのだが、この作品は単なる「人間は素晴らしい」「ライフイズビューティフル」に終始したタイトルではない。すくなくとも、筆者はそう感じた。なのでこうしてお気持ち文を書くハメになってしまったわけだ。その発端は、ある2つのワードにある。

「我ら思う、故に我らあり」(主題歌『我ら思う、故に我らあり』より)
「私は肉体という牢獄の中だ」(本編24話・アランの台詞より)

前者はとくに哲学を学んでいない日本人でもピンとくるワードだろう。近代哲学の巨人・デカルト(1596~1650)が『方法序説』にて述べた世界一有名な哲学の命題「cogito ergo sum/コギト・エルゴ・スム(我思う、故に我あり)」のパロディである。
はじめて聞いた時は気志團の陽気な歌唱のせいもあって「仮面ライダーはそんな分野からワードを拝借するのか」程度に流していたが、後者の発言が出たせいで一気に本作への視点を変えざるえなくなった。

「肉体は牢獄である」とは古代ギリシャの哲学者・プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)が唱えたイデア論を支える骨子のひとつである。つまり、ニチアサという子供向け番組のなかで西洋哲学を想起させるワードをふたつも盛りこんでいたわけだ。

この奇妙な符号は単なる偶然だろうか。あらためて番組を整理し、そのうえで本編を見終えたところ、先のふたつは氷山の一角に過ぎないと結論するに至った。
端的にいえば、『仮面ライダーゴースト』とは西洋哲学に子どものヒーローという仮面を被せた、まさに仮面ライダーと呼ぶべき作品である。本記事では筆者がそう結論づける至った根拠を、4つのポイントに分けて論述する。

1章では主人公ことタケルが『方法序説』から生まれたデカルトの刺客であることを解説する。
2章は劇中の敵役である眼魔の凶行はプラトン、とくにイデア論を誤読した結果ではないかという立場で考察を進める。
3章においてはゴーストの最強フォームがいかに西洋哲学スーパーロボット大戦であるかを明快にし、最後に4章でタケルの戦いをデカルトの道徳と照らし合わせ、どう評価できるかに切り込みたい。


1章:天空寺タケルはデカルトの刺客である

「我思う、故に我あり」
確かに有名な命題である。しかし、あくまで17世紀にフランスで公刊された著書の一文であり、とてもではないが仮面ライダーの主題歌に使うにふさわしいワードではない。まずはこの「我思う~」の経緯と趣旨を洗っておこう。

デカルトが「我思う~」を記した『方法序説』とは、厳密には哲学書ではない。本来は3つの科学論文からなる論文集であり、件の一文が登場するのはその序文部分。彼が自身の思索や方法論———すなわち「ものの考え方」をまとめたパートなのだ。つまりデカルトにとって「我思う~」とは結論ではなく、よりよい生き方を模索するうえでの知恵にすぎない。

デカルトが生きた17世紀のフランスとは、絶対が喪失しようとしていた時代だ。16世紀中頃からヨーロッパ各地で巻き起こった宗教戦争は「神」という絶対者の存在をおおいに揺らがせた。ローマ教皇を頂点にすえる旧教カトリックと聖書だけを信仰の根拠とした新しいプロテスタントの衝突である。
ドイツのシュマルカルデン戦争、オランダ独立戦争、そしてドイツ三十年戦争と「神」をめぐる争いは1世紀以上にわたって多くの血を流し続けた。デカルトの故国であるフランスもユグノー戦争というかたちで宗教戦争に加担している。
デカルトの時代とは、だれもが縋るものを失いかけていた時代ともいえよう。

そのような世界情勢のなかで、学問に没頭する幸運に恵まれたデカルトが真理という絶対者を求めたのはごく自然な話だった。彼は真理を目指すにふさわしい手段はなにかを考えるにあたり、まず「人間は正しく世界を見つめているのか」という命題から出発する。
たとえばあなたはこの記事を読むにあたり、パソコンかスマホを使っていると思う。では、その端末は本当に正しく動いていると断言できるだろうか。本当はTwitterを開いているのに、誤作動でnoteを表示しているかもしれない。いや、それ以前に画面を見ている視覚は正しいのか。すべては一夜の夢でしかないとだれが否定できるだろう。この世界は、決意すれば疑えるもので溢れている。

このようになにもかもを疑いつづけたデカルトは、やがて「どんなに疑っても、”疑う”という行為に耽る自我の存在だけは疑えない」という答えを得る。
先ほどの例でいうならば、たとえ端末が誤作動を起こしていたとしても、画面を見る”私”がいるのは間違いない。”私”がいなければそもそも誤作動を疑うこともできないのだから、これは自明である。故に、”私”が考えている限り”私”は絶対に存在するというわけだ。

こうしてデカルトはふたつの方法論を発見した。事柄を疑ってなお残るものを真理とする「方法的懐疑」、経験に頼らず論理を展開する「演繹法」である。「我思う~」とはここに至るまでの過程であり、最初に得た結果といえよう。
デカルトは以上の成果を論文集の序文(のちの『方法序説』)にまとめ、近代哲学に多大な影響を及ぼすのであった。

「我思う~」の歴史と主張を確認したところで、ゴーストとの関わりを見ていく。この番組は第1話で主人公のタケルが訳も分からないまま眼魔に殺害される、非常にショッキングな展開を迎える。霊体となったタケルは異界と思しき場所で仙人を名乗る老人に見初められ、ゴーストドライバーを授かり、ゴーストとして仮初めの蘇生を果たす。
仮初めなので肉体と切り離された霊体のままだし、気を強くもたないと霊力が薄れて周囲の人間に認知されない、きわめて不安定な存在だ。しかし、それでもタケルは確かに存在していた。「我思う~」の視座で語るならば、彼には「俺は死んだ」と考える自我が残っていたからだ。

デカルトは方法的懐疑の積み重ねから、心身二元論の立場をとるようになった。ものを考える魂と実際に活動する肉体は別物であり、肉体は魂の入れ物にすぎない、とする考え方である。
先ほど解説したように魂=自我はものを考えている限りはけっして疑えない実在だが、肉体はそうではない。水槽の中の脳を例に出すまでもなく、実在を疑える物体である。ゆえに魂と肉体は同一ではなく、別物だとする。これが心身二元論の思想だ。
この理屈はタケルの状況をとてもわかりやすく解説できる。

通常、肉体が滅べば人間は消滅する。しかしタケルは肉体を失ってなお霊体として存在を維持した。肉体を失おうとも、ものを考えられる”私”が残っているならば、魂には全くもって影響がないからだ。これはゴーストの世界がデカルトの思想と強固に一致している点である。
疑うとは、信仰の揺らぎと言いかえてもいい。タケルは眼魔の手によって”私”以外のすべてが不確かな未来に放り出された。17世紀のフランスのように、絶対を失った。それでも失ったと認識できる”私”が残っているのならば、デカルト的には何の問題もない。思う我があり続ける限り、タケルは仮面ライダーとして戦えるし、前にも進めるのだ。「我思う~」を文字通り体現したヒーロー、それが天空寺タケルだ。

なぜデカルトの思想がゴーストの世界と符合し、あたかも影響を与えたかのようにふるまっているのだろうか。
これはデカルトがゴーストーーー仮面ライダーゴーストとしての用語ではなく、三次元における正真正銘の亡霊という意味だーーーとして平成の世に化けて出たからだと推察できる。デカルトが唱えた「我思う、故に我あり」とこれに基づく心身二元論は、のちに多くの批判を浴びた。
とくに心身二元論は今や陳腐な空想の理論である。肉体と精神は連動しているに決まっているし、どちらかが死ねばともに滅びる運命共同体だというのが現代の信仰だ。デカルトはそれが許せなかった。眼魂として選ばれるに値する偉人であるにも関わらずその座を蹴り飛ばし、世界の法則を浸食し、自身の理論を体現する主人公を祀り上げたのだ。
天空寺タケルとは、デカルトが仮面ライダーを利用して平成に送りこんだ刺客に他ならない。

主題歌に『我ら思う、故に我らあり』という世界一有名な命題をつけている時点で、本作はデカルトのオバケにとり憑かれていた。このオバケはきわめて厄介で、世界観そして主人公の命運まで握ってしまった。メタ的に表現するならば、制作陣のだれもがデカルトに操られていたのだ。
英雄の魂というかたちでオバケを取り扱う本作が、本当の亡霊に呪われる。有名な落語ならば「お前さんが言うゴーストとは……こんな奴じゃなかったですかい?」とボブヘアーで鬱屈な顔をした男に振り向かれているところだろう。

2章:眼魔最大の失敗は「プラトンの誤読」

仮面ライダーゴーストとなったタケルは生き返るため、英雄の魂が入った眼魂を集めようとする。これを妨害するのが本作の敵役、眼魔だ。タケルはデカルトの刺客であると前章で述べたが、彼が倒すべき眼魔はどのような立ち位置にあると考えられるだろうか。

まずは眼魔について整理しておく。
彼らは地球からはるか遠く離れた「眼魔世界」の住人であり、世界は大帝・アドニスとその一族が統治している。その目的はアドニスが唱える完璧な世界の拡大だ。だれも死ぬことなく、苦しむこともなく、永遠の幸せが続く世界。そのような理想を眼魔世界だけでなく地球にも広めるために侵略を開始した、というのが作中における眼魔の動機である。
また、彼らには肉体がない。正確にいえば肉体は安全な場所で半永久的に隔離されており、普段活動しているのは眼魔を媒体に実体化した精神体である。肉体が滅びない限りは何度でも蘇ることができ、実体化していない者は仮想現実のなかで幸せな日々を過ごす。眼魔世界では完璧な世界をすでに実現しているわけだ。
24話でアランが「私は肉体という牢獄の中だ」とうそぶいたのも納得いくだろう。このような境遇ならば、肉体は精神を縛る厄介な入れ物にすぎないと考えて不思議はない。

さて、眼魔の概要を見直したところで、最初の疑問に立ち返る。眼魔はデカルトの刺客と相対する者として、どう捉えるのが適切か。要旨でも解説したように「私は肉体という牢獄の中だ」とは、明らかにプラトンの引用である。
プラトンとは師にソクラテス、弟子にアリストテレスを持つ、古代ギリシャの高名な哲学者だ。その思想を分析するならば、彼が生涯を費やして探究したイデア論に目を向けざるをえない。

イデアとはざっくり表現すれば「価値あるものの理想的なかたち」である。有名な例え話をしよう。ここに「△」がある。私たちをこの図形を見て即座に三角形と認識できるだろう。
しかし、この「△」を徹底して細かく見てみれば、端末のスペックによって完璧な直線ではなかったり角度が正確ではなかったりする。定規を使っても同様だ。鉛筆削りをサボって芯が丸くなっていれば話にもならない。
すなわち、この世の「△」はすべて完璧な三角形ではない。だけど私たちは「△」を三角形と断言してしまう。この現象を、プラトンはイデアの想起説という立場で説明する。

プラトン曰く、この世で体験しうるすべては偽物でしかなく、肉体や感覚を超えた非物質的かつ永遠絶対の存在・イデアの影にすぎない。人間の魂は不滅の存在であり、人々は覚えていないだけでかつてどこかでイデアを見た過去がある。
この世界で見る「△」を三角形と呼んでしまうのは、イデアの中にもちろん三角形の完璧なモデルもあり、これを想い出している(想起)からだ、というのがイデア論の根幹だ。

プラトンはこのイデアこそが知の到達点であり、目指すべきポイントと定めた。まさに理想の概念そのものといえよう。文中に再三登場させているアランの台詞にしてプラトンの言葉「肉体という牢獄」とは、イデアを知る崇高な魂が肉体に閉じ込められているせいで影しか知覚できなくなっている、という意味なのだ。

ここで眼魔とプラトンの関わりを考察してみよう。符号するのは眼魔が目指す完璧な世界とプラトンが唱えるイデアが、ともに理想をうたう点だ。理想を辞書で引くと、次のような解説がなされている。

「考えうる最も完全なもの」(goo国語辞書 https://dictionary.goo.ne.jp/)

プラトンがイデアを想定した理由は、和風にいえば諸行無常である。この世界は五感でしか物事を認識できず、万物は常に変化し、やがて消滅する。彼が心酔した師・ソクラテスも裁判にかけられて命を落とした。そのような不確実なものは本当の意味での実在とはいえず、真の実在は不変だからこそ感覚では理解できないイデアのみとするのがプラトンの立場だ。
眼魔が完璧な世界を目指す理由も、根底には諸行無常がある。大帝アドニスが理想を掲げるようになったのは妻の死がきっかけだった。諸行無常の最たるものだろう。だれも死なず永遠に幸福である完璧な世界は、世界の根源であるからこそ不変の実在を保つイデアのオマージュではないだろうか。

「考えうる最も完全なもの」という理想の概念において両者は確かに一致しており、大事な人の死を経験している点も重なる。肉体を軽視して魂を本質と考える態度も鑑みれば、眼魔にプラトンが影響していると見て、なんら問題ないのである。

しかし、眼魔はやがてプラトンと決別することになる。きっかけは大帝アドニスの死、そして後釜に座った次期大帝アデルの暴走である。
アドニスの息子であるアデルは幼少期のトラウマから父を憎んでおり、22話で反逆を起こして27話で間接的にアドニスを殺害し、大帝の座についた。それから20話ほどタケルたちに立ちはだかった最大の敵がアデルだが、彼はプラトンの理解という一点において落第点を突きつけざるをえない。すなわち誤読だ。父の理想をまったく受け継いでなかったと表現してもいい。

大帝の座についたアデルが掲げた方針は前大帝と同じ理想の世界の実現である。先に解説した「肉体を安全な場所で半永久的に隔離して精神は幸せな仮想現実を生き続ける」眼魔世界は、実際のところ成立していなかった。エネルギーの問題で肉体の維持が間に合わず、いずれ灰になって死んでしまう。
この真実を意図的に伏せられていたアドニスは知らなかったが、アデルは知っていた。アデルは今度こそ完璧な世界を作りあげるため、この手で殺めた父の理想を実現するため、地球を容赦なく侵略する。

プラトンはイデアを理解するために重要なのは感覚ではなく理性だとした。彼は著書『国家』で「統治者は理性からなる知恵をもって善のイデアを知覚し、これをもとに共同体を指導するべき」と説く。かみ砕いて表現しよう。理想(イデア)を目指すには直感や経験を放棄し、自身の思想をもって立ち向かわなければならない、という話だ。
さて、父から指導者の座を奪い、完璧な世界という名のイデアを目指すアデルはこの条件に当てはまっているといえるだろうか。当然、NOである。

アデルはアドニスが掲げた理想を追従しているにすぎない。勝手にも父をイデアだと決めつけ、その影を追いかけているだけだ。眼魔がプラトンと握手を続けるには、アデルが父と真の意味で決別しなければならなかった。自分自身の哲学から新たな理想を見出すか、そもそもアドニスを殺さなければよかったのだ。事実、プラトンから離れたアデルは大帝として徐々に立ち行かなくなり、家族から刃を向けられる暗君になりさがった。

42話でアデルはタケルに完膚なきまでに打ちのめされたことをきっかけに、「完璧な世界を作るのではなく、自分が世界そのものになる」と宣言する。この台詞は一見突拍子がないが、プラトンの誤読を前提に捉えれば納得がいく。理想を叶えるのではなく、理想と一体化してしまう。つまり自身をイデアそのものとして、永遠に理想を叶えていられる状態になろうとしているのだ。当然、それは感覚によってイデアを捉える愚行でしかない。人間ははるか昔からイデアを知っているのだから、一体化するまでもないのだ。誤解も甚だしい。
眼魔はアデルが大帝の席に座った時点で、完璧な世界からもっとも遠い地点へと追いやられてしまったといえる。その結末は、この記事を読んでいる方には説明するまでもない。アデル自身が死の直前でその間違いに気づけたのが、せめてもの救いだろう。

このように眼魔はプラトンのイデア論に則って行動しており、大帝の代替わりをきっかけに暴走を始め、敗北へと進んでいく。本作を西洋哲学のエッセンスを存分に含んだ意欲作と考えるならば、偉大な哲学者を誤読した怪人ほどふさわしい敵も存在しない。

ちなみに仮面ライダーことタケルにとり憑くデカルトはプラトンと奇妙なつながりがある。デカルトが提唱する心身二元論は、ルーツをたどればプラトンのイデア論に行き着くと考えられる。ともに魂と肉体を別とし、魂こそ至高だと認めるためだ。
近代哲学の父デカルトが差し向けた刺客が、プラトンの亡霊に堕ちた怪人と戦う―――そのような因縁めいた構造が本作には隠れている。

3章:デカルトとヒュームのスーパータッグ、ムゲン魂

プラトンの亡霊を相手取るタケルは、何度も危険な目にあいながらなんとか役割をこなしていき、ある象徴的な事態に直面する。33話における3度目の死亡と復活だ。同話で登場したゴーストの最終フォーム、ムゲン魂フォーム。この最終フォーム登場回はオカルトを扱う本作でも際立って不思議な話だった。
オレ眼魔を砕かれて消滅したはずのタケルが、どことも知れぬ空間に漂っており、仲間たちの想いを受け止めているうちに何故か復活する。ともすればご都合主義のそしりを免れない展開だが、そうでもない。この流れもまた、西洋哲学を土台にしている。

17世紀頃からイギリスではイギリス経験論と呼ばれる哲学上の立場が登場する。人間が持ちうる知恵はすべて生まれつきのものではなく、人生という経験でのみ培われる、とする考え方だ。経験主義ともいい、ベーコン(1561~1626)やロック(1632~1704)がイギリス経験論の祖といって差し支えない。ロックは人間とは生まれたときは1枚の板書(=白紙)であり、経験を経て情報が書きこまれていく、と経験論を端的に表現した。
彼ら以外のイギリス経験論の主な哲学者にはバークリー(1685~1753)やヒューム(1711~1776)の名が挙がるだろう。そしてこの章で重要視すべきは、経験主義にしてデカルトと同じ懐疑主義の立場をとったヒュームである。

先ほどから述べているように、タケルは「我思う~」をその身で体現したデカルトの刺客だ。しかし考えてほしい。そもそも哲学の歴史はデカルトで終了したわけではない。デカルトを学び、その先を目指した哲学者がいくらでも存在した。そのなかで一際眩しい功績を残した人物がヒュームだ。
デカルトと同じように方法的懐疑から思索を出発させたヒュームは、しかしデカルトが唯一信じた”私”の実在を疑えると主張した。「我思う~」により絶対視されていた自我の解体を試みたのだ。

彼は人間の認識を”私”という実在が受け持つ分野ではなく、知覚の束の発露と理解した。知覚は経験と言い換えてもいい。
この記事に手を伸ばすような読者に伝えるべく、平成ライダーシリーズを例に挙げる。我々はある平成ライダー……たとえばドライブは、平成ライダーの文脈からゴーストの前作だと考える。エグゼイドは逆にゴーストの次回作と理解するだろう。ドライブ-ゴースト-エグゼイドは平成ライダーというつながりがある、と考えるが、ヒュームの思想からすればそれは「平成ライダーという経験則から因果関係を見出しているにすぎない」となる。
ドライブもゴーストもエグゼイドも、平成ライダーという枠を外せばまったく関係ない別番組にすぎない。ただ3人の仮面ライダーが並んでいるだけだ。
そしてこの3人を平成ライダーとしてまとめなければならない理由は、どこにも明確に存在しえない。

このように、すべての認識はその人が人生で得てきた経験それぞれ1本ずつの糸を、その都度編み上げて束にしたものである、とするのがヒュームの立場である。この提唱によりヒュームはデカルトが想定した”私”の実在を否定し、自我とは瞬間瞬間に発生する実態のない観念の集合体でしかないと断じた。現代人ならば「思考は脳を走る電気信号によって発生しているだけ」と考えれば幾分か理解を助けるかもしれない。
先に述べたように、デカルトは『方法序説』を発表したのち多くの批判を浴びた。その批判をだれよりも鋭く突きつけ、”私”を解体してみせたのが他ならぬヒュームなのだ。

さて、ヒュームの根幹にある「"私”は知覚の束にすぎない」という思想を聞いてピンときた方はいるだろうか。そう、33話におけるタケルの復活劇である。あの回においてタケルはオレ眼魂を砕かれ、間違いなく死亡した。謎の空間に漂っていた彼自身も「体もなにもない……今度こそ、俺は本当に」と紛れもない死を感じ取っている。しかし、アカリの涙をきっかけに「仲間たちに残る自分の記憶が想いとなり、生と死を超えて無限に広がっていく」という答えを得て復活を果たす。

ヒュームの論とはすなわち、”私”=経験である。仲間たちが覚えていた「天空寺タケルという経験」が束となり、タケルの自我を現世に象った。無論、通常ならばそれだけで終わる話だが、タケルは肉体を必要としないデカルトの刺客だ。魂だけで成立しているタケルは非常に観念的な存在のため、"私”さえ認識すればそれだけで復活には十分である。
こうして33話の奇々怪々な復活劇は成立した。ご都合主義でもなんでもなく、「デカルトの刺客」が「デカルトの解体者」の理論で復活するという、哲学史上相対した両者が手をとりあう物語が根底に流れていたのである。

現世に戻ってきたタケルはムゲンゴーストアイコンを手に、ムゲン魂へチョーカイガンを遂げる。本編で明確な敗北シーンが描かれなかったという、歴代ライダーでも屈指の活躍をしたこのフォームはタケルの感情を変換して攻撃する必殺技が特徴的だ。
そんなゴーストの最強フォームにもヒュームの関与がうかがえる。ヒュームは経験主義、懐疑主義のほかにもうひとつ哲学上の立場を持つとされる。感情主義だ。

人間の倫理や規範とは「友人の幸せな姿を見ると嬉しい」「悲しんでると気分が落ちこむ」などの感情の発露と共感が先にある。理性はこれに従っているにすぎない、とするのがヒュームの感情主義である。誤解されがちなので注釈しておくが、ヒュームはなにも理性的判断を卑下しているわけではない。人間の感情とは道徳的に発揮されうるものと述べているのだ。

話が逸れるので感情主義の解説はここまでにしておこう。この場で興味深いのは、ヒュームが提唱した知覚の束によって復活したタケルが感情の力を武器にしている点だ。復活の際に彼の要素がタケルの自我に混ざってしまったのだろうか。42話で仙人の正体が判明して怒りの感情を学んだうえですべてを許したのも、ヒュームがいうところの道徳的な感情の発揮だったのかもしれない。

対立した思想を持つデカルトとヒュームがタッグを組んでプラトンの亡霊を圧倒する……まさに西洋哲学史スーパーロボット大戦の様相を呈するゴーストの象徴的存在がムゲン魂である。
ここまでくるとヒュームの色が強すぎると思われるかもしれない。だが彼の活躍はあくまで強化フォーム、追加アイテムだと考えた方が都合がいい。なにせヒュームでは1話でタケルを幽霊にできない。"私"の存在をも解体するヒュームの思想体系では、魂だけになったタケルを実在させる理論を持たないからだ。
この物語を哲学として見るならば主軸はあくまでデカルトにあるのだと理解していただければ幸いである。

4章:お腹すいた

ムゲン魂を得たタケルはその後も幾度となく訪れた危機をすべて踏破した末、見事アデルとわかりあい、暴走したガンマイザーを撃破して眼魔の侵攻から地球を救った。現代に英雄が誕生した瞬間である。
すべてを終わらせたタケルはグレートアイに招待され、自分がグレートアイと同じ超常存在に近い存在になっていることを告げられる。「もはや生き返る必要はないでしょう?」と尋ねるグレートアイに、タケルは力強く言葉を返す。

「俺は普通の人間に戻りたい。みんなとごはんが食べたいし、みんなと一緒に笑って、一緒に悩んで、みんなと一緒に生きたい」

だが、タケルの願いは蘇生ではなかった。

「ガンマイザーに消された人たちを元に戻してほしい(中略)それ以上のことは望まない。自分たちでやるから。人間の可能性は無限大なんだ」

人間の可能性は無限大。西洋哲学を中心に見てきた本記事では取り扱わなかったワードだが、これもまた本作の重要なテーマのひとつであり、タケルが1年間(作中では半年)の戦いを通して学び、貫きとおした信念である。
ここにもまたひとつの、そしてTV本編では最後の哲学的背景を見出せる。

デカルトの『方法序説』といえば「我思う~」が有名だ。事実、議論されるのはこの命題ばかりだろう。だが『方法序説』ではほかにも、ある意味では「我思う~」よりはるかに重要なパートが存在する。それは全6部からなる本書で第3部にて記されている当座の道徳だ。
デカルトは真理を究めるうえで、既存の学問すべてを放棄し一から理論を構築しようと試みる。とはいえ、毎日ひたすら思索に没頭するわけにはいかない。当然ながら生活せねば人は生きてゆけない。そのため彼はとりあえず生きていくにあたり、なるべく幸せになれるだろう4つの行動規則を定めた。
これを当座の道徳とデカルトが呼んだのは、暫定的であり、またしっかりした思考に基づいて用意したものではないからだろうとされる。4つの行動規則を要約すると、以下のとおりだ。

1.自国の法律と慣習に従い、幼少の頃からの宗教を守り続け、複数の意見を選ぶ際にはもっとも穏当なものを選ぶ

2.行動は決断的に、途中で疑わしくなっても曲げずにやりきる

3.運命ではなく自分に打ち克つよう努める。世間ではなく自分の欲望を変えるように励む

4.自身の最善として生涯をかけて理性を育み、自ら決めた方法で真理を探究する


ひとつひとつくわしく解説するのは控えたい。なぜなら、いずれの規範も直感的に嫌悪しようのない、現代人から見てもごくごく真っ当な道徳と思われるからだ。哲学者といえば偏屈な変人のイメージが強い。哲学の親玉との印象まであるデカルトともなればどれほどの奇人かと無意識に想像していた方もいらっしゃるだろうが、実際の彼はこのようにとても質素な道徳を胸に生きていた、立派なモラリストであった。

この4つの格率を見てみると、タケルがこれらに従って行動していたのがわかると思う。天空寺に脈々と受け継がれてきた運命をタケルは毅然として受け入れ、時には折れそうになる自己を奮い立たせ、決断的に前へ前へと進み続けた。そして「人間の可能性は無限大」という彼なりの真理を最後まで探究し、グレートアイを名乗る神に叩きつけるのだ。
作中の言動からタケルはよくファンの間で「聖人」と称されたりするが、当然だ。彼はデカルトの命題を立証するだけでなく、その素朴だからこそ理想的な道徳すらも体現していたのだから。

こうしてタケルはデカルトの刺客を見事にやり遂げた。幽霊という、思う私以外なんら寄る辺のない存在が、最後に道徳をもって自ら決めた道を貫き通す。1年かけて余すことなく自説を立証してくれた刺客、否、ヒーローにデカルトは最大限の敬意とともに報酬を支払う。完全な蘇生である。
タケルがいちど自分の蘇生を拒否する必要がここにある。タケルの蘇生は本作で最初に提示された最終目標だ。物語を終わらせる「タケルの蘇生」を受け取るためには、始まりから世界そのものにとり憑いていたデカルトの魂を満足させ、これを祓わなければならない。実に壮大なゴーストハントをタケルは達成した。劇中でグレートアイが蘇生の権利とともに贈ってくれた言葉「お礼です」は、デカルトの代弁でもあったのかもしれない。

かくしてタケルは蘇生し、仲間たちに普通の人間として迎えられる。その第一声は「お腹すいた」。17世紀よりやってきたゴーストから解き放たれた青年はこうして日常に戻ってゆく。デカルトは哲学を「善く生きるための術」として求めた。厄介なオバケに憑かれた経験を糧に、タケルは今日も人間として精いっぱい幸福に生きているに違いない。戦いを経て得たかけがえのない真理、「人間の可能性は無限大」を胸に。


おわりに

本記事で述べてきた考えは本来文章にする予定ではなかった。Twitterにてゴーストの感想を呟いていたところ、何人かから「論考としてまとめてほしい」と催促されたのがきっかけだ。筆者がWEBライターをしているせいか、なかには報酬を支払うと言い出す方までいた。(丁重にお断りした)
そこまで楽しみにする人がいるなら、未来への記録にもなるだろうと考え、形にしようと決意した。私に催促した人たちのだれか一人でもここまで読んでくれていれば、令和初の1月2日を丸々浪費した価値はあるだろう。

くり返すが、本記事は素人の妄想記事だ。ニチアサ番組と西洋哲学を混ぜこねてけもの道を開拓せんとした無理筋の束である。くれぐれも本気にせず、ましてやよそで話題にしないでほしい。
最後に形式としてだれかにお礼を述べようとしたが、だれの顔も思い浮かばないそもそもこんな話を相談した相手なんかいやしない。なので自分だけにお疲れ様を告げ、参考文献の作成にとりかかり推敲のうえアップロード作業でさっさと結びとしたい。それでは。おなかすいた。


参考文献
ルネ・デカルト著 三宅徳嘉・小池健男訳『方法叙説』白水社 2005
デイヴィット・ヒューム著 大槻春彦訳『人性論(全4巻)』岩波書店 1995
プラトン著 岩田靖夫訳『パイドンー魂の不死について』岩波書店 1998
プラトン著 藤沢令夫訳『国家(上下)』岩波書店 1979
荒木清『一冊で哲学の名著を読む』中経出版 2004
伊藤賀一『これまでイマイチ理解できなかった人もすぐにわかるようになる すごい哲学』KADOKAWA 2018
中沢務『哲学を学ぶ』晃洋書房 2017

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