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変わらないもの

ここ数年を考えても、社会情勢や人々の意識の変化を感じることがあります。また技術の発展や制度の変更が日常生活にも小さな変化をもたらすのを実感します。より長い単位の時間では人は世代交代していくわけで、もっともっと大きな変化が生じているのでしょう。
 
易は紀元前の昔から続いてきた考えです。社会制度も、人の意識も、生活そのものもまったく違う時代に生まれたもの。そんなふうに長く続いてきたものに触れる時、時代や環境が変化する中で「変わらないものとは何か」ということに目が向きます。
 
たとえば、物事は変化し続けるということ。そのこと自体が時代を超えても変わらないことです。「易」の字そのものが「変化すること」を表しますが、どのような時でも変化し続けることが本質だということを、易という存在自体が表しているのかもしれません。
反対に言えば、変化し続けなければいけないということでもあるのでしょう。今現在が落ち着いているように見えると、つい変化を嫌ったり恐れたりする状態になってしまうことがありますが、常によりよく変わっていくことを意識する必要があるということ。それは今ある問題から目を背けずに、よりよい状態にすべく模索し続けること。それが変化であり進化の形なのだろうと思います。
 
また思想から占いまで、政治的な大きな問題から個人の小さな悩み事まで、さまざまに活用されてきた、易。その中心になっている陰陽という思想は「物事を分けて考える」ということを教えてくれます。
 
たとえば悩みがある時、自分でコントロールできることと、自分ではコントロールできないことをとにかく分けて考える。自分の力ではどうにもできないことを悩み不満を募らせていても何も変わりませんが、自分でコントロールできることを明確にすることで行動に移すことができます。「分けて考える」こととは、物事を漠然とではなく整理して明確に捉えることです。
 
それはどんなに大きな問題でも、日常の小さな悩みにおいても共通していることだろうと思います。そして、古代から現代まで、時を超えても変わらないこと。
 
「変化」を意味し陰陽で表される易を通して、時を超えても変わらない大切なことを考える。そこで表されるのは基本的なことかもしれないけれど、その基本ができなかったり忘れてしまったりするものです。大切なエッセンスが詰まっている存在が、私にとっての易だと感じます。
 
 

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