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学ぶこと(4.山水蒙)

生みの苦しみを表す水雷屯(すいらいちゅん)の次に出てくるのは、無知な状態を表す山水蒙(さんすいもう)。

山水蒙

水雷屯が新しく生まれ出た時とすると、山水蒙は経験が少なく物を知らない幼子の状態。人の成長に重なるような並びです。誰でも最初は何も分からない状態から色々なことを学んでいくものですが、山水蒙は学ぶことや教育がテーマ。水雷屯で何かを始めようとして困難にぶつかり、そこから次の山水蒙で自分の無知や不足を知り学んでいく流れ、と捉えることもできそうです。
 
『易経』の山水蒙には次のような言葉がかけられています。

教える側が、幼く無知な存在を求めて教えようとするのではない。
幼く無知な存在が、進んで教えを請う。

(我、童蒙を求むるにあらず。童蒙来たりて我に求む)

学びたいと意思を持ち、自ら求めてはじめて学ぶことができるもの。教わる側にやる気や積極性がなければ、いくら教えてもらっても大して身にならない、ということは言うまでもないことかもしれません。しかし、自分は学びに対して積極的に求める強い気持ちがあるだろうか、と改めて振り返ると、惰性になってしまったり義務的だったりすることもあるように思います。また、教える側に立った場合も、相手が求めてもいないのに教えよう教えようとしても押しつけになるだけ。教わる側のやる気や意思は、学ぶことや教育というテーマに関して、一番大切な要素と言えるように思います。
 
「蒙」は、物事が分かっていない様子や、暗く覆い隠されている状態などを表す字。たとえれば、山の中で霧に覆われて視界不明瞭だったり、高く険しい山を前にしてどのように進めばいいのか道筋がまったく見えないと感じたりするような状況でしょうか。自分の中にも困難や問題があり、状況的にも止まる必要があるような状態です。
 
何かに悩む時や迷う時。学ぶべきことは、おそらく想像よりも大きく、目ざすものは、思うよりも高い場所にある。山水蒙で表される学びは、楽しいものというよりは、厳しさや困難を思わせます。それでも、山を登るように一歩一歩。基礎をしっかり、やすきに流れず、子供のような素直な姿勢を持って学ぶこと。山のように、高くどっしりと内側を充実させ、川のように、深く止まることなく下流へ流れるにしたがって幅広く。
 
新しいことへの挑戦と、試練や困難にぶつかって学ぶこと。人生はその繰り返しなのかもしれません。そして、学びに終わりがないということは、学ぶ姿勢はその人の生きる姿勢ともいえるように思います。

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