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【雑記】玉石混合の記録、記憶_221029

冠婚葬祭フルコンプの2ヶ月間だった。9月の半ばに祖父が亡くなり、10月の頭には自分の結婚式があった。誰がこんなこと想像しただろう、と言いたいけれど、実は不謹慎にも、結婚式の数ヶ月前に「もしも結婚式の直前で祖父母が死んだらどうしよう」と思った自分がいた。

私は祖父母にとっての初孫だ。二人を喜ばせたかったから、どうせするならと思って、少し無理をして早いタイミングで挙式することを決めた。祖父母のうちの一人でも欠けるというのは、自分にとって最悪で、だからこそ想像してしまうシナリオだった。なので、結婚式のわずか3週間前に祖父が本当に帰らぬ人となったとき「私が少しでも嫌なことを考えたから、こんなことになってしまった」と、ものすごく自分を責めた。

その一方で祖母は、自分が祖父に心臓マッサージをできなかったことを責めていたし、母は祖母からの救急搬送を知らせる電話に出られなかったことを、今でもつらそうに口にする。妹は、危篤の報せをやり過ごしてしまったことを、後悔している。それぞれが、それぞれの荷物を背負っていた。

悲しい出来事は、幸せな出来事ではチャラにならない。悲しみは悲しみのまま、幸せは幸せのままで、水と油みたいに分離しているようだ。祖父のために用意した席には、当日彼が着る予定だった燕尾服をかけて、彼の口に入るはずだったコース料理を用意してもらった。

結婚式という華やかな場で、祖父の席だけが悲しみのかたまりだった。それぞれが背負っている荷物を、嫌でも思い出させるものになっていたと思う。けれど、祖父の席を無くすということは頭に浮かびすらしなかった。
「両家合わせて参列者は変わらず21人で」と、私は周囲に伝えていたし、事情を知るオットやプランナーさんも、故人の席を用意することを訝しんだりしなかった。

粋なことをしようなんて気持ちはこれっぽちもなくて、私は「祖父はまだいる」と信じ込んでいたのかもしれない。それはそれで彼の死を受け入れられていなくて何だか歪よね、と思う。けれど人の存在というのは、そのようにして少しずつ「あの世のもの」になっていくのだろうな。

きっとあの席は、まだ私のなかで「あの世のもの」になっていない祖父に座ってもらうために、必要だった。一年前の計画と変わらず、私たちの結婚式の参列者は21人だった。そこから減る余地はなかった。どんなに嫌な予感が頭をかすめたとしても、私はずっと、祖父に自分の晴れ姿を見せたかった。それは紛れもない事実なのだ。

・・・・・

祖父のお葬式。私の結婚式。冠婚葬祭を乗り切った末に罹患したコロナ。オットに看病されるだけの生活。そして明日、祖父の四十九日ということで、納骨をする。身近な、手でそっと触れられるくらいの人間関係のなかで過ごした二ヶ月間だった。裏を返せば、手が届かなかったり、頑張らないとkeep in touchできないようなものたちからは、一定の距離をおいた日々でもあった。

スマホは仕事の連絡を確認したり、遺品整理の気分転換に触れるだけのものになった。顔を合わせて誰かと話す時間が増えて、スクリーンタイムはするすると減っていった。唯一、ほぼ毎日と言っていいくらい続けていたのが、自分だけが登録されたグループLINEに、日記のような記録を残すことだった。

もしも今後、血縁関係の人たちも頼れないくらいつらい出来事が起こったとして、最終的に私の手元に残るものも、また自分ひとりのグループLINEなのかもしれない。それは心の機微にゼロ距離でくっついていて、持ち主の感じたことを忠実に記録してくれる。

息をしていない祖父の枕元で、ちっちゃいカプセルの中で起こっている大洪水みたいな感情、それを抱えたまま正座していた時間。あのときも手元にはスマホがあって、LINEが開かれていた。ペンと紙のメモを開くよりもクイックで、カジュアルで、ともすれば少し不謹慎。だから良かった。

私はどんどん、身近で、閉じられていて、個人的な文脈で成り立つものに収斂していっている。「秋だし、何ならもうすぐ冬だし、こんな時期があっても別にいいよね」と思ったり、思わなかったりもする。

今日も何となく、どんな言葉を書くかもまとまらないまま、ひとりだけのグループLINEを開く。お金の振込予定をメモすることもあれば、買い物リストを書くこともある。その中にひょいと「じいじのお骨を焼いた煙が空に昇るのを、原っぱに寝転がってずっと見ていたい」みたいな言葉が混じる。
玉石混合の記録、記憶とともに、生きている。


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