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至って個人的で、至って無遠慮な(誕生日に添えて)

一つ年を重ねました。うれしい。

毎年、誕生日の1週間前くらいからふわふわ、そわそわしてしまう。
大人になったら誕生日の特別感が薄れる、と口にする人もいるけれど、自分自身の生誕祭を淡白な気持ちで過ごしたことは、今のところ一度も無い。

※ちなみに去年はこんな誕生日を過ごしていた。妹を巻き込んでやりたい放題やる姉。

誕生日のいいところは、一年のイベントの中でもっとも「個人的である」ところだと思う。お正月とか地域のお祭りのように、みんなで花火を打ち上げる類のものではない。同じ日に祝われるのは、自分と同じ誕生日の人だけ。

一年に一度のその日が訪れ、多くの人におめでとうと声をかけてもらうと、照れくさくなると同時に「わたしという人間」に強めのスポットライトを当てるような感覚に襲われる。

一昨年くらいから今年にかけて「個人的である」ことに拍車がかかっている。自分の言いたいことを言い、言いたくないことは言わなくなった。普段はひとりで考えたり行動したりして、ときに「心から手を取り合いたい」と思うような人と歩みを共にする時間が増えた。

個人的であるということは、孤独であることとは少し違うので、寂しいと感じることはあまりない。けれど、大人数の力を借りてどうにかなっていたことがどうにもならなくなるようなもどかしさを感じることは、時折ある。

それでよい、それがよいと言えるようになったのは、ぼつぼつと不器用に話すくせにやたら主張の強い、歪にとんがった自分でも、誰かに愛し愛されながら、碌でもない人生をかき分けかき分け進んでいけるのだ、と思わされる局面に恵まれたからだと思う。

「従順である」という駒がひっくり返って「自己主張する」という出目に変わったところで、嫌われるとか嘲笑されるとか、恐れていたようなことはなにも起こらなかった。すべては家族や友人、まじめで、ときに軽薄で、互いの心が氾濫するほどの愛情を注ぎ合える人々のおかげである。

28歳のありたい姿は「(自分だけのスピードで)ズイズイ進む」。引き続き個人プレーの多い一年になりそうだ。
けれど「個人的である」ということには、見たことのない形の足跡が残る獣道だとか、そういうものを作ったり、または目撃者になったりできる喜びがある。

綺麗な大通りより、泥だらけの獣道にときめく自分のことは、ちゃんと自分の心の機微を守れている感じがするので、とても好きだ。これからもそうありたい。

28歳のわたしもよろしくお願いします。


珍しくウィッシュリストを作ってみました。中身はほぼ本ですが、誕生日を祝ってくださる方がいたら、何か贈っていただけるととても喜びます。
そうでない方も、私の思考の向かう先を見るような気持ちで、是非覗いてみてください。


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