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穴を笑う

(やってしまった……)

心のなかで静かにつぶやいた。目線の先には、お気に入りのベロアでできたワンピース、そこに線路を敷くように広がった横長の焼跡。

すっかり底冷えのする寒い気候が続いたので、ぼふぼふに着ぶくれするようなセーターに、厚手のワンピースを合わせた。その服装でうっかりストーブの前を横切ったら、金属の熱くなっている部分に裾が触れたみたいで、黒いベロアが手の施しようのないほどしっかりと溶けてしまった。

ショックなときほど声が出ないのは昔から変わらない。心のなかで(ガーン……)と落ち込んだときの効果音が鐘のように何度も鳴るだけだ。

ひとしきり大騒ぎして憂さ晴らしできるような性格だったら……という思いが一瞬頭をよぎることはあれど、そういう自分になりたいと本気で思うことはあまり無い。

(ガーン……)の余韻がすこし遠ざかりはじめた頃、ふと思い出した。
わたし、同じように服を溶かしたことがある。5年前に。

・・・・・

そのときは、演奏旅行のさなかだった。さほど寒くないだろうとたかをくくっていたら、思ったよりも厳しい寒波の日が続き、持ってきていた厚手のタイツが足りなくなったのだ。

洗濯をすれば良いのだが、あいにく洗っても干して乾かすだけの時間がない。滞在しているホテルにも、乾燥機というものが置いていなかった。

タイツだけなんとかなれば良い、と思ったわたしがどんな行動に出たか、皆さんは想像がつくだろうか。
洗剤でタイツを洗い、絞ったりして水気をきったあと、ドライヤーの熱風を履き口のなかに送り込んで乾かそうとしたのである。

どんどん水分を飛ばしていくタイツに、世紀の大発明をしたような気持ちになってニコニコする。熱風を当てはじめてから5分ほどで、濡れそぼった厚手のタイツも、乾燥機に入れたみたいにカラッカラになった。

乾き具合を確かめようと、手を中に入れる。先の方まで指をいれたら、にゅっと指が飛び出した。ん?このタイツ、もうそんなに古かったっけ?

違った。タイツは新品だった。熱風がずっと当たっている部分が溶けて、履きつぶしたような穴ぼこが空いてしまったのだ。
(本当にわたしってやつは……)と思う。タイツにヴィンテージ加工を施してどうするというのか。

とは言っても、もはや履けるものはその新品ヴィンテージ加工タイツしかない。しかも、ホールへ移動するバスの出発時刻も迫っている。泣く泣く、足先から親指を出しながら過ごすことにした。熱処理された部分が、痛くないくらいに、でもどうしようもなく気になるくらいに、ちくちくと親指の付け根を刺激する。

靴を脱ぐわけでもないし、言わなけりゃバレない。が、「言わなけりゃバレない」ようなことを誰にも笑ってもらわずに抱えているときが、いちばん恥ずかしい。

けれどこんな極寒のなかで「見て見て」なんて親指をだしたら、それこそ恥の上書き保存をしかねない……と、冷静なわたしが脳内でキツめに諫めてくる。恥ずかしさを自分の心と靴の中にじくじくと留めるようにして、わたしは黙っていた。

楽器を持ってバスに乗り込むと、通路を挟んで隣の席に乗り込んだ人がいた。太鼓奏者のお兄さんで、名を辻さんと言った。

わたしより8つ年上の辻さんは、音楽の神様と笑いの神様を同時に味方につけて生まれてきたような人で、暇さえあれば周りにいる人を笑わせたり呆れさせたりする。けれど、こと音楽や、太鼓を叩くこととなると「8つ年上である」ことを自覚させられずにはいられないような気迫を感じさせる人だった。

辻さんは座席に座り、わたしのほうに会釈してきた。わたしも会釈しかえして、「寒いですね」と声をかける。「ほんとに。洗濯しても全然乾かなくてこまっちゃう」と彼が返す。今朝のわたしみたいなことを言う人だな、と思った。

「そうですよね。わたしも今朝タイツ乾かなくて、どうしようかと思いました」「え、でもそれどうするの?生乾きで持ち歩くのしんどいじゃん」「いや、だから必死で乾かしましたよ」「乾かすって必死でやることじゃないでしょ」

隠している足の親指、その周辺を、雑談がふわふわと陽気に浮遊する。

「でも辻さん、けっこう演奏旅行されてるじゃないですか。洗濯物が乾かないことないんですか」「あるよ。そういうときは慌ててドライヤーで乾かす」

リーチ。親指がそわそわする。

「ちなみに、溶かしたりしたことってないんですか。洗濯物を、熱で……。」「全然あるよ、ドライヤーの当て方ミスって穴空けたよ、大事な本番前に!」

ビンゴ!!わたしは吹き出すのを堪えられなかった。足元の穴は、もうじくじくとしなかった。黒いパンプスを脱ぎ捨て、ぴょんと飛び出た親指をイモムシみたいにうねうねさせる。辻さんは、ニヤ、と悪戯小僧みたいな顔で笑った。それから、時間の間隔をあけながらこまめに熱風を当てると溶けないよ、と当たり前すぎるアドバイスをくれた。

・・・・・

彼は、と思う。

音楽と笑い、両方の神様に愛されているような彼は、取り返しのつかないような穴を開けてしまったとき、どんな顔をしてその空洞を覗き込むのだろうか。わたしみたいに、こっそり見えないところに穴を隠して暮らしたことがあるのだろうか。


わたしは今、タイツに空けた穴よりもずっと大きくて、遥かに後戻りのできないものを前にしている。

スマホで「服 穴 お直し おしゃれ」と打って、それから検索結果を眺めた。裾をドレープにしたり、レースをつけたりした人のブログ記事が出てくる。穴と対峙した人たちの数。

辻さんの顔を思い浮かべる。「ミスって穴空けたよ!」という、太鼓みたいに快活な声も、一緒になって脳内に響く。

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