泳げないくらい悲しいときは、水面に浮かんでみませんか
「あなたは本当に回遊魚みたいな子だね」と、母は言う。泳ぎ続けていないと死んでしまう、の意味らしい。
当人はまったくそんなつもりはないのだけれど、気づけばかれこれ3ヶ月くらい、丸一日の休みが取れない日々が続いている。そろそろ回遊魚のキング、マグロを名乗ってもいいかもしれない。
そんな生粋の本マグロも、10月の頭に結婚式を挙げることになった。流石に挙式の直前まで予定が詰まっているのもいかがなものかと思い、実は9月下旬からは仕事をセーブしていた、はずだった。
ところが身内に、それも比較的近い身内に不幸があった。でんぐり返しの勢いで覆っていく、カレンダーの予定たち。9月の中旬はほぼ丸々実家にいることになったので、その期間の仕事がほぼ全て、下旬にずれることになった。
つくづく、予定はあくまでも予定である、ということを痛感する。「予め定まっている」だけあって、土壇場でのちゃぶ台返しは十分に起こりうるのだ。
・・・・・
目まぐるしさから、三半規管が馬鹿になりそうな数週間。ぐるぐるぐるぐるがぐるぐるくらいになり、今日ようやく一息つくことができた。
できた、のに、無性に不安になり、そこそこ広い部屋の隅っこで膝を抱える自分がいる。
忙しいときには気づきもしなかった、私のなかの不安、虚しさ、悲しい気持ち。それらが、脳内に肩を組んで居座っているのだ。困ったもんだぜ。
三半規管のぐるぐるぐるぐるは、止まりたくない自分を鈍感にしてくれる。忙しい自分を誇らしく思わせてくれたり、悲しみなんてとうの昔に過ぎ去ったように見せかけてくれたりもする。
だから、鈍感でなければ、泳ぎ続けるマグロでなんかいられないよ、と、やさぐれる自分もいる。ずっと三半規管が馬鹿になっていたなら「この先泳ぎ続けられるだろうか」なんて不安にならなくてもいいのに。
けれど、私の身体は「泳がないこと」がどういうものか、知っている。蹴伸びが、まさにそれだ。
とん、と岸辺を一度だけ蹴って、ただの一本の線となって水面を切り裂いていく心地よさ。手も足も動かさないので、だんだんとスピードが衰えていく不安。終いには、沖で完全に止まってしまったときの絶望感と「もう必死にならなくていいのだ」という、奇妙な安堵感。
全部全部「泳げないくらい悲しいとき」に経験したものだ。
私には、「泳ぎ続ける選択肢」も「静止を受け入れる選択肢」もある。
後者を選び取り、沖合でぷかぷか水面に浮かんでいるうちに、悲しみや虚しさも、やわらかく水分を含んでふやけていったりするのだろうか。
そうしているうちに、辛い気持ちが「まあ触り心地の悪くないもの」になるのならば、私は「泳ぎをやめても、死なずに済むのだ」と思えるのかもしれない。
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