2020/03/23

やっぱり「たま」が好きだ
ライブを見たこともなければCDを買ったこともないのだけれど、やっぱりたまが好きだ【助けにならぬおれカネゴン】

今までたまの音楽にぴったり来る言葉がどうしても思いつかなくて沈黙していたのだけど、やっとそれに近いものが見つかった気がする

人はどう思うかしらないのだけれど、たまのアレンジ能力は極めて突出している
ただ、それがたま以外の誰にも似合わないというだけだったりする

たまが某深夜番組で突然スポットが当たったとき、審査員のうちスタジオワークに長けたミュージシャンたちがいずれも非常に困った顔をしていたのが当時からものすごく気になっていた

なぜ困ったのか

それは、既存の音楽の作り方・飾り方では決してたまが引き立たないからだ
スタジオミュージシャンがどうやっても関わりようがない音楽だからだ

以下は「数学する身体」より

名称未設定

普通の回路設計ならエンジニアが真っ先に排除するであろう、不確定な電磁結合や磁束漏出や微小なノイズをガンガン使って組み立てられた回路
それがたまの音楽

どこにもつながっていないと思われていた論理ブロックなのに、取り除くと途端に動かなくなってしまう
そんなものでできている

音楽の組み立て方が、真っ向から違う

では何で組み立てられているのか

たまの音楽は、全員が「作曲する」ことで組み立てられているという仮説を取りたい

単なる装飾やら合いの手やらカウンターメロディやら流麗なストリングスやら重低音やらを社交辞令的に重ねて周波数帯域を埋めるような、通常の方法とはまったく異なる

メンバーの誰かが作った曲に、他のメンバーがむらむらと入れたくなった「歌つきのフレーズ」を悪魔合体させる
そんなふうにできている

手癖に満ちたアドリブとか小節数が8の倍数のインプロビゼーションとかは、まったくお呼びでない

たまの音楽に惹かれる人は、自分もそこに何かをむらむらと強引に入れてみたくなる、生まれながらの物作り人が多いのも当然ということになる

ジャズから適当に見繕うとすれば、たまとウキウキ共演したくなる人はおそらくセロニアス・モンクぐらいしかいないとカネゴンは勝手に推測している
そして彼ぐらい自分の好きなものがはっきりくっきりしているメロディーメーカーでないと、たまのような音楽を支えられない

たまの音楽を浮かび上がらせるには、たまと関わりそうでまったく関わらない人々を列挙するのがある意味わかりやすい

YMOがらみの人たちは、不思議なぐらいたまとまったく関わりがない
細野晴臣や矢野顕子など、一見とても近そうに見えるのに、接点が見当たらない
あんまり列挙すると差し障りがありそうなのでこの辺にしておきます【吉本喜劇とおれカネゴン】

それも無理はないと思う
中途半端に関わると完全に自分が「食われてしまう」から
スタジオミュージシャン系の審査員たちが困ったのも、自分たちが「食われる側」だということを本能的に悟ったからだと思う

たまをカバーする音楽家が極めて少ないのもそれだ
冒頭のエレクトロニカのカバーは、そうした試練を軽々と乗り越えた素晴らしい逸品です

たまがビートルズと比べられるのももっともだと思う
「作曲する」ことで雌雄嵌合体を作り上げるアレンジは、まさにビートルズがやってきたことだったりする
ただビートルズの方が遥かにカバーしやすいという違いはあるのだけれど

不思議なことにたまの音楽の組み立てられ方からうかがえる価値観は、一般的な音楽と違って、むしろ「絵画」に近い気がする

絵画は、写実的だからという理由だけで愛されたりはしない
でも音楽は、しばしば「演奏がスゴい」という理由だけで愛されたりする

絵画の面白さは、筆さばきが鋭いとか拙いとかそういう価値観だけでは到底捉えきれない
ひとつひとつは覚束ない手付きであっても、時間をかけて自分の好きなものを作り上げていく作業
リアルタイムな演奏をまったく意に介さず、むしろ絵筆をとるようにアレンジに熱中する
その方がはるかにたまらしい

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