なんでもない日

自宅にいろと言われても限度があるわけで、さすがに1日に1度くらい外の空気を吸わないと逆に家の中で理由なく死を迎える気がして、夕方に散歩に出かけた。不要不急?いやいや要不急です。

(不要不急って難しいよね)

ただ、散歩するといえども、いざ歩くとなるとどこへ行こうか、となる。家から丁度いい距離のところに達成感を得られるだけの目的地があるとか、大きな公園とか河川敷とか、歩いているだけで散歩気分を味わえるようなところがあればいいのだけれど、そんなこともない。お散歩ハイライト作ったら車に轢かれるとか、空から何かが降ってくるくらいのイベントがなければこれといった見所も作れなさそうな、そんな所に住んでいます

そこで、どうしようかと思って、少し考えて、自分の通っていた小学校に行くことにした。もちろん当時の通学路に沿って。

家からそう遠くない所にあるので、新鮮味はないのだけれど、往復15分〜20分で済みそうなので丁度良さそうだ、と思って足を一歩踏み出した。

新鮮味がないと思っていた道で、意外なことに気がついた。

確かに、小学校は家から片道10分とかからずにいけるのだけど、その道を歩いて小学校に行ったことはもしかしたら卒業ぶりだったのかもしれない

小学校は最寄駅とは反対側に位置しているし、かりにその道を少し通るとしても大概は自転車に乗っていたように思う。だから、卒業ぶりは大袈裟かもしれないけれど、かなり久しぶりにその道を歩いた。

新鮮味がないと思っていた道で、意外なことにもう1つ気がついた。

こんなにもこの道は狭かっただろうか。こんなにも街頭の木は背が低くて細かっただろうか。勿論木は自分より高くて太いのだけど、しかしなんだか小さく見えた。

それもそのはず、当時150cm程度で今178cmあるのだから、自分がそれだけ大きくなって見える世界も変わったということにすぎないわけで、当たり前のことではある。ただ、歩いていると、知っている道なのに知らない道のような気がして新鮮だった。

あれ、ここの家こんなに綺麗だったっけ。昔はこんな所に柵はなかったよな。ここの家の前を通るとモスキート音が鳴るの嫌だったな、今聞こえないのは鳴らすのやめたのか、それとも聞こえなくなってしまったのかどちらなんだろう。など。


なんてことない道ではあるけれど、確かにそこに自分の成長の証が、大袈裟に言うと、生きた証がそこにあるような気がして、少し驚いた。試験の点数を始めとした明確な数値、他人からの言葉や評価を軸に自分がどういう人間かとか、成長具合は確認できる(又は測られる)けれど、そういったものではなしに、普通の一本の道を歩いて、自分がここまで生きてきたことを、感じることができた。それは、物理的に背が伸びて大きくなったね〜とかそういうことではなくて、勿論それも含むのだけど、それ以上にあの頃からここまで、身長が伸びていく間に確かに自分はたくさんの人に出会って、いろんな経験をして、笑って泣いて怒って人を好きになって、ケンカして。そうやってここまで来たんだな、ということを実感できた。ただの散歩にしては考えすぎかもしれないけど、そう思うことができた夕方でした。


もし、通っていた小学校が近くにあるのなら、気晴らしに(体調不良の方は寝てて)少し散歩に出てみるのもいいかもしれません。もちろん、元気であっても適度にしないとだめですよ。


コロナの一件で家にいろなんて、ことがなければもしかしたら気がつかなかったことかもしれないので、そこはコロナウイルスに感謝





なんてするわけないだろ。はやくおさまれよバカ





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