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この教訓にはかなり無理がある


1日が終わり、今日も電車で帰路に着く。



歳を重ねるにつき、1日はあっという間に過ぎていく。歳を重ねるにつき、というほど歳を重ねてはいないものの、小学生だったころに感じていたような時間で生きていないのは確かだ。気づけば1日が終わり、1週間がおわり、春が来て、その積み重ねでまた1年が経ち春が来る。不思議なものだ。

そういうわけで、1日も無駄にはできないのに、1日が終わるとその日のことを考えて、本当にやれることを全てやったのだろうか、という気になってしまう。

昨日、明日やろうと思っていたこと、朝考えていたことが、果たして今日実現できていたのか。

そう考えていくと、限りなく理想に近い1日は過ごせていない。しかし、理想の1日なんて来るはずはないし、来てはいけない。人間は満足してはいけない生き物だからだ。満たされぬ何かを満たすために今日1日を生き、満ち足りぬ何かを求めて未来に目を向け、未来のために今日を積み重ねるのである。

ところで、そんな未来を作ろうと思ってもなかなか作れないことにおいて、障害がある。

人の目だ。

自分がやりたいことや、やろうとしていること、チャレンジしたいこと、そういったことを考えるにつき、人の目を気にしてしまうのもまた人間だ

私は、僕は、そんなこと気にしない!そういう人もいるかもしれないが、それは嘘である。初めはそうであったとしても必ず自分の行動は人の評価を基に修正されていくのが常なのだから、気にしないはずはない。というより無視ができない。

ただ、これは悪いことではない。人は自分だけでは、自分が何者か、或いは、自分のしていることの正しさや目的地を認識できない。他者があって初めてその性格や方向性を確認できる。そういう意味で他人は鏡としてどんどん活用していくべきものだ。鏡万歳。

ただ、鏡はあくまで自分の姿を映してくれればいいのであって、鏡にそれ以上のことは何も求めていない。鏡の中で勝手に動いたりしなくて良い。

人の目を気にして躊躇したときというのは、大概この鏡の中で動き出した何者かに邪魔されていることが多い。

自分の姿を確認するだけのものだったはずが、いつしか、鏡に映ったモノのみを参考にしか生きていけなくなる。これは大変良くない。鏡は害悪。




そんなことを電車で考えているうち、隣にやつれたサラリーマンのおじさんが座ってきた。

なんだかとても疲れているように見える。それが元々の顔なのか、仕事のせいなのか、コロナのせいなのかは分からないけど、疲れているように見える。

その疲れを癒すかのようにおじさんは、イヤホンを耳に挿し、音楽のゲームを始めた。結構なことだ。

そして5分が経っただろうか、事は起きた。


おじさんはとても大きいおならをしたのだ。


品のない描写を重ねるとすれば、低い音とともに座席を通して、振動が少し伝わってくるくらいには、大きめのおならをしたのだ。


公共の場で、しかも周りに人がそこそこいる中でおじさんは、大きなおならをした。大事件だ。(尚おならをしたこと自体が大事件なのであって、おならが大きかったから大事件と言ってるわけではないことも、一応ここで付け足しておく。)


しかし、周りの人はほとんど見向きもしない。鼻をつまむひともいない(幸い臭いはしなかった)

ほう、なるほど、僕は思った。


電車で大きなおならをしたところで、誰も気にしないのだ。だったら、自分のやりたいことだって好きにやったらいいじゃないか。


最初の1歩を踏み出す事はそこまで難しいことじゃない。だからこそ、他人の目を気にせず、堂々と電車でおならをしたおじさんみたいに、一歩踏み出してみよう。そう思った。



この教訓にはかなり無理がある。

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