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本から始まる 「第0回ドゥルーズのプルーストから始まる」

誰が真実を探求するのか。また、《私は真実を欲する》というひとは、何を言いたいのか。プルーストは、人間が、また純粋と考えられる精神の持主さえも、本来、真なるものへの欲求、真実への意志を持っているとは考えない。われわれが真実を探求するのは、具体的な状況によってそうせざるをえない場合、われわれにこの探求を強いる一種の暴力を受ける場合のみである。
ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ [増補版]』宇波彰訳(法政大学出版局) p.19-20

國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』 (岩波現代全書)で一番面白く読んだのは、『プルーストとシーニュ』を引きつつ語られる、人は本来なるべく動きたくないし考えたくない、行動を起こさざるをえなかったり考えざるをえない状況に追い込まれてはじめてそうする、という箇所で、あれ、これは『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)だっけ。ともかく、僕たちが何かものを考えるとき、それは何かしらのショックを受けてなかば強制的に考える行為へと追いやられている。これはなるべくなら布団から出たくない僕なんかはそうだなあと頷くのだけど、そうだとすると、本を読むという行為は自ら動かざるをえない状況を作り出していくというか、わざわざショックを受けに行くような酔狂な道楽なのかもしれない。
本を読む行為は、ただ読むだけでなく読んだものに触発されるように自分でも書いてみることでより一層楽しくなると思っていて、それはただ野球の中継を見ても面白味がわからない僕のようなものでも、試しにキャッチボールをしてみるだけで球を追う行為の解像度が上がり、面白さをたぐりよせる状態になりうるというようなことで、書く感触を知っているからこそ実作者の筆の運びをなぞるように読むことができる。

そうして書いていくうちに自分の書いたものに本の形を与えてみたいと思うようになった。先ほどの野球の喩えでいくならば、草野球の試合に出てみたほうがより一層野球を楽しめるだろう、本をより楽しむためには、本を作ってみるのがいいんじゃないか、そういう考えだった。そしてそれは在庫のある生活の始まりでもあった。

在庫のある生活を選んだ人は、在庫を持つぞという意志を持ってそうしたわけではない。われわれが在庫を持つのは、具体的な状況によってそうせざるをえない場合、われわれにこの探求を強いる一種の暴力を受ける場合のみである。僕の場合この探求に否応なく導いてくれたのはプルースト『失われた時を求めて』(井上久一郎訳、ちくま文庫)だった。僕はこの長大な小説を毎日毎日読みながら、ほとんどプルーストに触れずその時々ほかに読んでいる本についてばかり言及するような日記をつけていった。それを今年の秋『プルーストを読む生活1 第一篇 スワンからゴモラまで』として本にした。初版は40部。印刷代も安くはなかったし、はやく原価回収して安心したいからうっかり飛ぶように売れないかな、と思っていた。秋の文学フリマ東京でお披露目すると30部ほど売れて、残りもHABさんに置いていただいてあっという間に捌けた。それで今回増刷に至ったわけだけれど、前回の倍以上の数を刷った在庫を前に、不思議と飛ぶように売れないかな、という気持ちはない。本は、ゆっくり届いたほうがいい。発信してすぐさま「いいね」がつく、そういう速さに価値を置くようなフィードバックループのなかに、自分の本を巻き込みたくないかも、そんなことを我が家の寝室を確実に圧迫する段ボールを前にして思う。インターネットの即時性、書いたそばからコミュニケーションが取れて脳内でなんか知らない快楽物質がどんどん放出される、そういう気持ちよさも嫌いではないのだけど、なぜ今紙の本を読んで、わざわざそれを紙の本にしたのかって、そういう速さとは別のところで言葉を発してみたいと思ったからでもあるかもしれないな、と気がついたのだ。じわじわ、ゆっくり、ひそやかに、この在庫が世に放たれていくといいな、と思う。ずっとあるのは困るけど。なるべく長く在庫のある生活をしていたい。

初めてのときもそうだったが、データ入稿後、刷り上がったものが届くまでの一週間、気分に不調をきたした。データに恐ろしい不備があったらどうしよう、たとえばページの順番がバラバラになっていたり、なぜか日本語としての体をなさない狂気の文字列として出力されていたりしたら。そういう妄想ばかりたくましくなり、不安だった。待つ以外することもないので、特にこの不安には手の打ちようがない。どうか無事で、どうか無事に届いてほしい。祈るような気持ち、という紋切型の文句があるが、漠然とした、根拠のあるようなないような不安を前に、人は、大きく出るが人は、ただ不安にじっと耐えるしかない。祈りとかはない。そう思った。不安なときはなるべく足元を見ずに遠くに行くに限る。そう思って待つ一週間リュックには吉田健一の『旅の時間』(講談社文芸文庫)と『LOCUST vol.3』が主に入っていた。家では『2666』(白水社)を読んだ。岐阜に行きたくなり、メキシコはそうでもなかった。
そろそろ刷り上がりの連絡が来るかな、というとき、ふと僕は友だちが欲しいというか、仲間に入れてほしかったのかもしれないな、と気がついた。読者として、書店を訪れる客として、こんな人もいますよ、と言ってみたかったのかもしれない。この本の在庫がある限り、好ましく思う書店に「こんな本を作ったんですけど」と提案に行くことができる。それは「友だちになりたい」と伝えるようなものかもしれない。特に商売というつもりでもなく、ただ作りたくて本を作った僕のような人にとっては。利益の損得でなく、ただ「友だちになりたい」。本にまつわる世界の一端に、僕も入れてほしい。在庫は、そのための口実というか、手形のようなものだった。発送完了のメールが来てから、隙あらばヤマトの追跡システムで荷物の移動を追っていた。昨晩遅くに岡山を出た本は、翌朝にはもう都内のセンターに到着していた。はやく来てくれ、どうか無事に、そうやって待つことしかできない。
関係ないが、在庫のある生活の前夜、長らく品薄だった「リングフィット アドベンチャー」の在庫が復活して、ヨドバシから届いていた。荷物を待つのは楽しいよりじれったさが勝る。朝から世界平和のためにフィットネスを行い、気を紛らわしていた。やっと荷物が届いた時、そのとき僕は安堵というか感謝というか、どちらかというとしみじみした感慨に浸るのだと思っていた。けれども二箱の段ボールを開け、そこに僕の思い描いた本がそっくりそのまま入っているのを見たとき僕にまっさきに去来した言葉は「ビクトリー!」だった。適度な有酸素運動とストレッチで血行も促進されていたし、なにより在庫は感謝とかでなくただ嬉しさだった。これから、この本を届けるというのを口実にどんどん出かけていくぞ、とはりきった。

やっぱり『習うより走れ』だね!
『リングフィット アドベンチャー』(Nintendo Switch専用フィットネスソフト、任天堂)

本を読み書きそれを本の形にするという一連の実践は、いつしか作った本をじわじわと広く届けたいという新しい欲望を引き寄せてきた。これもまた僕には困ったことで、自分の作った本の世話に忙しくなるとそのぶん本を読む時間が圧迫されてしまう。けれども本を読むという行為は次々と僕を動かざるをえない状況へと追い込んでいく。困ったなあと言いつつ僕は楽しい。どこに連れていかれるのかもわからないまま本を読み、考え、行動し、じっさい想像もしなかった場所へと辿り着いている。本を読むことはそのまま書くことだったし、作ることですらあった。そして制作という行為は在庫を生産し、在庫は僕にはやく外に出せと要求する。それで僕は誰かと知り合えたらいいな、と出かけていく。未知の友人への楽しい期待半分、誰からも相手にされないかもしれないという心細さ半分。

第0回 了

〈『プルーストを読む生活』はこちら〉

〈連載していた時の記事はこちら〉

*「本から始まる」の第一回は「H.A.Bノ冊子」第五号(2020年3月刊行)から連載開始予定です。ご期待ください。

〈H.A.Bノ冊子についてはこちら〉


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