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日記hibi/ 2018/8/6〜8/12

2018年8月6日(月)
『業務日誌余白』を丁寧に読みすぎて先に進まない。いままで僕が学んだり聞いてきたことの、突き合わせ、という感じがしている。いちいちとまって考え、ああなるほど、とか、こことあの本はつながる?、などと思いながら少しづつ進めていく。突き合わせる。レイヤーをつくる。重層化していく。永遠になる。

“法被前掛け時代から本を売ることの如何にむずかしいかを教えられ体験してきた私にとって、内閣情報局、陸軍省、海軍省、といった時の権力者がサーベルを鳴らして威圧する本の一元的配給体制というものは、別世界の出来事としてしか受け取れなかった。内閣情報部がしばしば声明にしていたという、「搾取的取次制度を廃し、一元的適正配給の新会社設立」という要旨を人から聞き、新聞報道でも知ったが、一体「搾取的取次」という言葉はどこを調べてどこから取ってきたのか、疑われた。また本に「適正」はあっても「配給」ということがあっていいのか、不可解千万であった。”
『業務日誌余白』p.166

世の中は変わったり変わらなかったりしている。変わらないことのほうが多い。

夜に、納品した本を引き取りに、古書ほうろうさんにはじめて伺ったところ、こんなところに、こんな時間に、来てはいけなかった! というような品揃えで、閉店間際で店内に僕しかいない状況で無言で店内を二周くらい駆け足で回った。SUREの本が東京にあると喜んでしまうのは、わりと本好きあるあるのような気がしている。古本では絶版本しか買わないというルールがあり、今回は「出版社のつくりかた」特集の1986年のダ・カーポや、『小さなメディアの必要』、新刊で「不忍界隈」などが買われた。

2018年8月7日(火)
津田沼のBOOKS昭和堂が閉店するとのことだった。
津田沼は新入社員のときの書店研修先の本屋があった。芳林堂の津田沼店でいまはもうないのだけれど、その芳林堂と同じ側の出口にあった昭和堂は、毎朝眼の前を通る書店だった、が、だから何がおこるというとこもなかった。最初に会社の先輩についていった時に、看板を指さされ、ここは有名な店だから、あの、POPの、ということを聞いたが、POP自体は知っていたので、そうなのか、と思い、その研修中はなんども足を運んだのだけれど、それ以上でも以下でもなかった。最近『本屋な日々 青春編』に

“『白い犬とワルツを』のブーム以降、木下和郎はあまりPOPを書かなくなり、やがてまったく書かなくなった。だが、沈黙したわけれはない。”
同書P.42

という書き出しがとても良かったことを、思い出したくらいだった。

2018年8月8日(水)
そうであったはずが翌日、Facebookの投稿で、取次の方が、津田沼に住んでいるのか、昭和堂によく行っていた、レイアウト変更やカフェもやっていたけど……すごく残念、というようなエントリを上げていて、それ自体近隣に住む個人としての素直な感想で、通っているからこそ感じられるその気持ちを、素直にそのまま受け取っていたのだけれど、コメントで
「俺は書店はもっといろんな業種と組めばいいと思う。既成概念うちやぶるしかないね」というクソみたいなコメントと、さらにその下に
「他人事だね。」
という別の人からのコメントがあり、ざわついた、というか混乱した。
既成概念云々というのは、本当にクソなので置いておくにして「他人事だね。」といのはどういうことなんだろう。そこにその言葉だけが放置されていて、「クソコメが」他人事なのか、「取次人なのに客として書店の閉店について悲しむ君の発言が」他人事なのか、あるいは別のなにかなのか、いずれにしても気持ちの悪いことだった。立場や権利のまずその前に、自分の気持を真摯に語れなくなってしまったら、僕たちは何について語ればいいのだろうか。なによりも、そこで唐突に放たれた「他人事だね。」が、ひとりポツンと居座っていて、特にレスは付いておらず、「他人事だね。」は他のすべての人にとっての他人事として、虚空に浮いていた。自分の言葉を、だれにもわからない文脈で、ぽんっと世に放って放置すること。その無神経さがわからなくて、わからないことはなにか理解のきざしなのもしれないのだけれど、理解の糸口がみえないまま混乱した。他人事として無責任に放たれた「他人事だね。」を他人事に出来なくて混乱した。それがFacebookのサーバーの幾%かを消費し、僕のPCのメモリを食っていた。消費されてしまった。気持ちもメモリも消費されてしまった。恐ろしいことだった。
コメント欄というのは、僕が今更なにかを言うまでもなく、わりと無責任に放たれた一言で専有されていて、日頃からその無責任さをわからないまま放置していたのだけれど、1人で考えて発信して、それを受け取った人もだれとも安易に共有することなく内省するようなコミュニケーションが僕の中で好まれているみたいだということを意識した。意識。いずれにしても、コメント欄!これはないほうがいい、という気持ちになり、放置していたHABノWEBのコメント欄をはずす方法を探したところ、有料オプションの中にその項目を見つけた。ネットでは、コミュニケーションを取らずに引きこもっていること、それ自体に有料の価値があるということだった。おおっと、ここからはタダでは渡せないねぇ、引きこもるんなら金出しな、ということだった。有料にすれば月額500円で容量が増えてクラウドがあなたのハードディスクに、パソコンが壊れてもバックアップがあって安心、仲間と連携管理もできてビジネスもスムーズに、ということだった。それと同じ領域で、引きこもることが、利便性として、売り買いされていた。このプランに加入する人は、誰かに対して黙ってもらいたくてお金を払っているのだろうか、あるいはその他の多様なオプションに惹かれていて、コメントを気にする人は少数派なんだろうか。わからなかったが、そうであるならば僕もビジネスライクに、クラウドストレージと同じように取捨選択して、今日もこのサイトにはコメント欄がある。

2018年8月9日(木)
昨日は台風のせいなのか、どうなのか、急に家にひとが泊まりに来ることになり、そこでわりとしこたま飲んだ。ビール以外のものをほいほい飲むのは久しぶりで、家にあった日本酒といただきもののシャンパンが開けられたが、朝方大きく二日酔いになることはなかった。ビールだけが偉大なのではないかもしれない。

だったのだが、持久力というか、じわじわくるというか、夜になるに連れて疲れが増していき、しかしてそういう日に限って原稿校正など、神経を使う仕事が残っていてせっせと進めていたところ、22:00になってWordがクラッシュするという事態が発生した。ファイル自体が壊れてしまったらしく、バックアップやタイムマシーンでは復帰できず、2時間の作業が消失した。消失。いや、消えたのは時間ではなくテキストだった。書いた文章、文字。いやいや、しかし、wordファイルであるので、消えたのは、というか、壊れたのは数列で、計算式で、最初から文字などどこにもなかった。僕が文字だと認識していたものは文字ではなかった。
「ファイル修復コンバーター」というもので開くと直ることがある、とどこかのブログで書いてあるのを発見したので試してみたところ

ぱ岅冷廕衕んャ乨蠅h、ヨ緆阅胻ぜ侶孧あるポ崎崌晳幕んのょ无窒キ詿、〹斁てマンガのぱ儚退語訧悒ゟ嬟慗ました

という文字列が表示された。0010101101010101010111111010001001110101…………

とりあえずビールを飲んだ。

2018年8月10日(金)
朝、普段どおりに起きたところ、昼過ぎの打合せ、および、そこで使う資料を作っていなかったことも含めて一気に思い出した。記憶というものはなぜ、急げばギリギリ間に合うけれどたいへん、というタイミングで思い出されるのだろうか。急いだ。急いだので、ギリギリ間に合った。
今週は毎日出荷作業をしているような週になっており、その日も出荷があったため箱詰めをしていると、バタついた気持ちが収まるのを感じた。箱詰めはいい、隙間なくきれいに詰められた本たちはそれだけで良い気持ちになる。本の箱詰めにはわりと、技術力と配慮というものが試されるので、いかに詰め物を使わず、左右天地に隙間を作らず、きれいに詰めるかというところが求められるのだけれど、この綺麗さでいままでどれくらい本を箱詰めしているかがほぼ分かるようなもので、倉庫会社から来る荷物がヨレヨレだったりすると、たいそう悲しい気持ちになる。ので、自分の出荷は妙に気を使って、なおかつ楽しくやっている。箱詰めはいい。
夜はB&Bのイベントアテンドで、このイベントアテンドというのは、気を使う代わりにイベントはちゃんと聞き放題というか、聞くことが求められるのだけれど、今回はブルーノ・ムナーリの本を多く出しているイタリアの出版社コッライーニとスカイプで中継をつなぐことになっていて、個人的にもたいそう楽しみであった。

画面に写った彼らはいわゆるイケオジ(オジはおじさんではなくおじいさんかもしれない)で、ときめいていたところ、開口一番「前に進むこと、続けるという意思を持つこと、文化をどう前に持っていくかということを意識して、非常にむずかしい時代であるからこそやめない、続けるということが大事」といっていて、今日は来てよかったと思った。

2018年8月11日(土)
お盆休みというのは、人が来るのか、来ないのか、よくわからないまま店をあけたところ、どちらかといえば、来ない、に振れている日だった。来ないなら来ないで、大量にたまっているデスクワークを進めるのだけれど、その少ない中のお客さんから、『満州出版史』(岡村敬二、吉川弘文館)という本を教えてもらった。これはすごいよ、ほんとだ買います、これすごい、という話から、『業務日誌余白』、『出版流通とシステム』、『日本出版販売史』など紹介し合う会話になり、最終的に金沢文圃閣! すばらしい、復刊している目録や本も全部欲しい、「「でも高い!」」という会話になって、このとき二人はすべてをわかりあった。(本当のことをいうと彼は15万くらいなら、一月分の給料なら、なんとかならなくはない、という旨の発言をしている)
ほくほくとした気持ちで、店をしめたあと、双子のライオン堂に向かい、『「百年の孤独」を代わりに読む』という本の読書会を開催した。最初に店に本を持ってきてくれた時に、「冗談として」「とにかく脱線して」「代わりに読む」のです、と言われ、これはすごいと思ってしまって、その場で仕入れてそして読んだのだった。脱線。だって誰しもが本を読むときは、それぞれのポイントで脱線しながら読んでいるのだから、「代わりに読む」のであれば脱線するものだし、それが読書だと思った。精読してしまっては、もちろんそれでいいのだけれど、それは自分で読んだもの、であって、代わりに読む、のであれば脱線してほしかったことに、言われて気がついた。興奮して、興奮して、興奮したまま「代わりに読まれた」結果、ラストで泣いた。あのオチは素晴らしかった。差し込まれたカラー写真は、代わりに読まれた僕たちを泣かせにかかってきていた。そこで興奮したまま読書会をしようといことになり、今日に至ったのだった。ゆえに僕はテンションが高かった。「代わりに読む」が読まれ、そして読書会という場で他人の意見を聞くことで、「代わりに読む」が「代わりに読まれて」いた。興奮した。そのレトリックにいたく興奮した。読書会終了後、いただいたサインで「代わりに読むを代わりに読むを代わりに読むを代わりに読むを代わりに読むを代わりに読むを代わりに読むを代わりに読むを代わりに読むを代わりに読」まれていた。

2018年8月12日(日)
昨日にひきつづき、ひきつづきというか割と平常運転ともいえるものの、今日もかわらず暇で、暇なりに本を片付けていった。来週末、清澄白河に多めに本を搬入するので、延々とその仕分けと納品リスト作りに励んでいたところ、気がついたら閉店間際になっており、たいへん店が暇であったことが知れた。いや、とはいえ、問い合わせや出会いなどはあり、「アルテリの在庫は」「今回の雑誌の特集は」「こんど展示を」などの会話がなされ、ひとが出会ったりすれ違ったりしていた。階段しかないペンシルビルの4階で、出会ったりはともかく、すれ違ったり、というのは字面的に面白い気がする。すれ違うだろうか、いや、物理的にはすれ違わないのだけれど、というかそれぞれがニアミスですれ違っていることは僕しか認識していないので、僕だけがすれ違ったように感じられるだけなのだけれど、なにか店番の醍醐味、的なものがそこにあるのかもしれないし、別に関係ないかもしれない。こういうことに意味を見出してしまう程度に、暇だったということだった。にもかかわらず、閉店後に現金が合わず、いや多い分にはレジ打ち間違いとかだろうからいいんだけれども、こんな小さな店で原因が見つからないというのも、不安な気持ちにさせた。そのせいでは全然ないのだけれど、家に帰ると相方との気持ちがすれ違ってしまい、一触即発、という雰囲気に陥ったが、最終的には平穏を得た。平穏。平穏に暮らしたい。
今週は、あまり本屋にいけなかった。

#READING
『「百年の孤独」を代わりに読む』

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