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本から始まる 特別編「名もなき享楽者たちから始まる」

ここで注意してほしいのは、文学や芸術には正しい解釈はないが間違った解釈はあり、また正しい答えがひとつとはかぎらないことだ。文学や芸術の魅力は、ひとつにはある程度の曖昧さを有していて多様な解釈を引き出すことができる点にある。たとえばデイヴィッド・ボウイのような表現力豊かな歌手の歌を聴くと、まるで自分だけに歌いかけてくれるように感じることがある。シェイクスピアの戯曲やボウイの歌のような、長きにわたって評価され続ける芸術というのは、受け取る人が勝手に自分に引き寄せて解釈してしまうことができる、曖昧な幅を持っているものだ。一方で、芸術にはそうした曖昧性があるのだから間違った読みなどなく、どのような解釈をしてもいいのだと考えている人もいるが、これは大きな誤解だ。たとえば「『ハムレット』ではハムレットが父である先王を殺害した」という解釈は間違っている。なぜならば、途中でクローディアスが王殺しを告白するドラマティックな場面があるからだ。これをクローディアスの嘘もしくはハムレットの妄想と見なすのは展開上無理がある。そのほうが面白いと考えてハムレットを殺人犯とする翻案作品を作ることはできるし、それなりにクリエイティヴではあるが、作品の中で起こっている事実の認定としては正しくない。解釈の戦いが順調に進めば、より間違いに近そうな解釈が力を失っていくはずだ。
北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』(白水社) p.12-13

二〇二〇年の春、COVID-19 と名付けられたにもかかわらずほとんど誰からもそう呼ばれることのない疫病に対する不安感がいよいよ募る都内において、僕は『大洪水の前に』(斎藤幸平、堀之内出版)を読んでいた。
これは思っていたより怖い病気だぞ、という理解が広まっていくなか、為政者による発信は具体的な個々人の生活への想像力や敬意を著しく欠いたものばかりで、僕も例に漏れず消耗していた。駅前のドラッグストアの棚の寒々しさを見るたびに、なんでこうも、ひとは他人を人間として扱えないのか、という怒りに身を浸していた。そうした状況のなかで、僕は本を読んでいた。
『総員玉砕せよ!』(水木しげる、講談社文庫)、『技術にも自治がある』(大熊孝、農山漁村文化協会)、『実践 日々のアナキズム 世界に抗う土着の秩序の作り方』(ジェームズ・C.スコット、清水展・日下渉・中溝和弥訳、岩波書店)、『自由論』(酒井隆史、河出文庫)、『暴力の哲学』(酒井隆史、河出書房新社)、『NEXT GENERATION GOVERNMENT 次世代ガバメント 小さくて大きい政府のつくり方』(若林恵 編、黒鳥社)、『江戸の読書会 会読の思想史』(前田勉、平凡社選書)、『この社会で働くのはなぜ苦しいのか』(樫村愛子、作品社)……このごろ読んでいる本はかなり具体的に「このどうしようもない状況のなかでもなるべくマシでいるために、一生活者の規模からやっていけることって何だろう」という問題意識によって選ばれており、こういうことは僕には珍しいような、実はそうでもないような、そんな感じだった。
それで、こういうときはマルクスに帰ろう、と思い手に取った『大洪水の前に』を読みながら僕が思い出していたのは、疫病の不安や、政治への不信や、資本主義の限界などではなく、シェイクスピア劇を楽しんだ女性たちの姿であり、つづ井さんの漫画に描かれる女性たちの姿だった。
だいたいの研究や思想というのは、基本的に「解釈」の戦いだ。『大洪水の前に』は、マルクスの二次創作者たちに対する「それ、解釈違いだわ。うちのマルクスはもっとエコだし」という解釈戦略の展開がなされていく。そこでは歴々のマルクス読解の神絵師たちのみならず、公式かつ最大手のエンゲルスにも「解釈違い」を宣告する。基本マルクス単推しなのだ。
何が言いたいかというと、マルクスであれ、マルクス研究者であれ、僕のような一読者にとってはシェイクスピアやデイヴィッド・ボウイやつづ井さんと何ら変わらない、解釈の遊びとして読まれるということだった。読書は、ただありがたい知識や物語を受動的に享楽するようなものではなく、見た目には表れはしないが、読む者の頭のなかは「ハアーッ、その解釈尊い~、たまげた最高~~!!!どうしよう一人で抱えきれない~!!!」などと大騒ぎであることも多い。読書は楽しい。

楽しさを考える上で最も重要なテクストが、ロラン・バルトによる『テクストの楽しみ』だ。バルトはこの著作で、一見受動的にテクストを受け取るだけの読みの行為を、創造的で楽しい知的活動として定義しなおした。読者が楽しみを作り出す主体なのだ。バルトはテクストから得られる「楽しみ(plaisir)」と「歓び(jouissance)」を区別し、楽しみはすでに読者がなじんでいるものから得られる一方、歓びは未知のミステリアスなものとの出会いから生じると規定した。テクストが何をもたらすかは受け取り手次第で、あるテクストがある者には楽しみを、別の者には歓びをもたらすこともある。さらに歓びは楽しみと区別がつけがたいこともあり、バルト自身が区別の曖昧さを認めている。前述したカーモードはバルトの議論を引き継ぎ、テクストが正典と見なされるためには、読者がそこから楽しみと、なじみの薄いものとの出会いによって生じる「狼狽」(バルトが言う「歓び」にあたるもの)を受け取る必要があり、解釈の変化に応じて楽しみや狼狽が更新されていくことで正典が正典であり続けると論じる。本書はこうした主張を踏まえ、正典形成において読者がテクストから見いだす楽しさを重視する。読書や観劇といった一見、受動的な行為は積極的な楽しさの追究なのだ。黙って本を読み、座っておとなしく舞台を見ているだけで、すでに我々はとても生き生きとした楽しみの活動を行なっている。
北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』(白水社)p .14-15

イ・ランも『悲しくてかっこいい人』(呉 永雅訳、リトルモア)で書いていたが、楽しさとは「楽しい~~!!!」とはっきり表象されるものでもない。淡々とページを手繰り文字にしがみつき、どちらかというと難しい顔しているときこそ、楽しかったりする。
静かで、地味だが、読書は「とても生き生きとした楽しみの活動」なのだ。読書は、文字を介して知らない人と知り合うことでもあるから楽しい。気の合う人と出会うことは喜ばしいし、それまで想像もしなかった自分とは異質な考えを持つ人と友達になることもまた、未知の歓びの準備としての驚きをもたらしてくれる。

読書というものは、写真のフィルムを現像するようなものだ、本が現像液で読者は感光したフィルムだという説を、僕は持っているが、どうも僕というフィルムには、初めから大した影像が写されていないかもしれぬと、ひどく悲観している。
(中略)
読書=フィルム現像説というのは、我々は、我々の具体的な個性・教養・思想・情操に呼応するものしか汲みとれず、ある本に感動したということ、あるいは、ある本がわかったということは、我々がいかなる問題、いかなる関心を持っているかということを、いわば告白暴露することに、ほかならぬという説である。
渡辺一夫『狂気について』(岩波文庫)p.243-244

僕は本を読むとき、それは自分の視野だとか考え方をガラッと変えられてしまうような体験を期待して読む、と断言すると嘘になる気もするが、そういう期待もたしかにあって、しかしそのたびに渡辺一夫の「読書=フィルム現像説」を思い出して、ひどく悲観する。何を読んでも、結局は自分しか見出せないのではないか。プルーストも言っていた。作品というのはレンズのようなものであって、それを使ってうまくものが見えるか見えないかは、作品の機能に瑕疵があるというよりも、使用者のニーズとマッチしていなかったということなのだ、と。
顕微鏡が必要な時に望遠鏡を持ち出して、なんだ何も見えないじゃないかと思っても、そこで望遠鏡は何の役にも立たないと断ずるのはナンセンスだ。そうプルーストは言っている。この場合、読者は望遠鏡としての本をまた積読の山の一角にそっと戻し、同じ山のなかから顕微鏡としての本を探しさえすればいい。しかし渡辺一夫は、そもそもの僕たち自身をフィルムに──顕微鏡だか望遠鏡だかと同じように、ある限られた範疇で活躍する機能を備えた道具として──喩える。この喩えは、僕たちはあらゆる問題意識や関心領域に自由にアクセスできる、自由で可能性に満ちた存在であるという幻想を打ち砕くものだ。
自らを、あらゆる本を縦横無尽に読む自由で可能性に満ちた使用者と考えることは、どんどん難しくなっている。フィルターバブルという言葉がすっかり定着したように、僕たちは、これまでに読書やそのほかの経験によって培われた具体的な個性・教養・思想・情操に呼応する限られた領域の本しか読むことのできないことに、薄々気がついている。
文字を介して知らない人と知り合うのも、楽じゃないのだ。
もちろんこのことは、自分にとっては「読めない」本のよさを否定することでは必ずしもない。自分には「読めない」本を、「読めない」と表明すること自体は全然オーケーだ。「読めた」としても──明らかに間違った解釈は論外として──書き手や読者の数だけ解釈はある。そして個人的な地雷というのも、たしかにある。大体の人はだいたいの人に対して共通点よりもわけのわかんない差異のほうが多い。でもそれは、いいとか悪いとかそんな特別なことじゃなく、そういうもんだ。

決して自分の基準を、あるいは自分の経験を、だれにでもあてはまるものとして一般化しないよう教えてください。彼女の基準は彼女だけのものであり、他の人のためのものではないことを教えてあげて。これは謙虚であるために必要な唯一のあり方です。つまり差異はノーマルなものだという認識です。
(…)
注意して、わたしは彼女を「中立的」に育てるよう提案しているわけではありません。この「中立的」というのは最近よく使われる表現だけど、ちょっと心配。その考えの背後にある一般的心情は立派でも、「中立的」というのは、ともすると「なにも意見をもたない」とか「自分の意見はいわずにおこう」という意味にすりかわるからです。逆に、わたしはチザルムには、自分の意見をたくさんもつようになってほしいし、その意見が十分に情報をあたえられた、人間味のある、寛容な場所から出てきたものであってほしいのです。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『イジェアウェレへ』くぼたのぞみ訳(河出書房新社) p.114-118

到底受け入れられない解釈の衝突があるとき、つづ井さんたちは相撲を取るが、文字が相手だったり、液晶越しの他人同士では、直接行動に訴えかけることもできない。でも、それはもう仕方がないのかもしれない。自分には理解できなかったり、そもそもコミュニケーションの端緒も見当たらないような他者との出会いというのはありふれている。それは普通のことなので、コミュニケーションの失敗それ自体は、自分の意見が空しいものであることを意味しない。
自分には何がわかって何ができるのかを知るためにも、自分の考えや意見というのは練り上げておくほうがよいと僕は考えている。ぜんぶはやらなくていい。僕たちの可能性は、有限なのだ。限られた手札を使って、何をするか。限定があるからこそ、僕たちは自分にとって重要なものを選び、それに集中することもできる。
無限の可能性を追求できる自由な個人という幻想を脱却し、有限で不自由な個人のあり方の価値をいま一度見直すべき時期なんじゃないか。『中動態の世界』(國分功一朗、医学書院)や『居るのはつらいよ』(東畑開人、医学書院)といった本を読んで以来、僕が考えるのはそのようなことだった。

いま、ふだんは意識もしないような社会のあり方や、日々の過ごし方を、否応なく見直さざるをえないようなことが起こっている。この社会は、能動的に自らの責任において無限の可能性を追求できる自由な主体というものを前提として設計されているようだった。けれども、目にも見えず、どう考えたらいいかもよくわからない不可視のウイルスによって顕在化したのは、その制度設計の内包するひずみだった。そのひずみに「なんかおかしいな」と感じる人が増えてきているんだと思う。こういうとき、実状にそぐわない制度設計に、無理やり合わせて行くというのはナンセンスだ。制度設計というのは、人が無理なく楽チンに過ごすためにこそ作られるのだから。人が制度に使われては意味がない。人が使いにくい仕組みは、人が使いやすいように変えてしまえばいい。
とはいえ、どうやって変えていけばいいんだろう、まったくわからない。取っ掛かりを考えるためにも、僕はいまこそ、自分の読解力を超えた異質な他者の書いた文字に無責任に触れ、その文字のただなかで中動態的に「読む」ことを試みていきたい。能動でも受動でもない、状況のただなかでそうあるようにある中動態の世界。「読む」のでも「読まされる」のでもない、読書のただなかでそうあるようにある中動態的読書。

中動態読書ってなんだ、それは、とにかくわからないままに丸読みしてみることかもしれない。すぐにわからなくていい。ただ、読む、だけ。とにかく本を読んでいる間は、それを理解できようができまいが、読者は本の時間のただなかにいる。わけわからんさのただなかで、それなりに楽しく過ごすこと。これはいまのような「非常時」だけでなく、普段から身についているとなにかしらグッドな技術だと思っている。僕は人の推し語りがとても好きだけれど、その人たちの語りはハイコンテクストすぎてだいたい何もわからない。でも、その人たちがとても楽しそうなことはわかるし、それがわかれば充分楽しい気持ちになれる。
とはいえ、まったくわからない本をずっと読み続けるのはしんどい。そのしんどさが楽しかったりもするのだけど、そういう修行みたいなのはたまにでいい。わからなさを楽しむコツを一つご紹介しよう。見よう見まねでモノ真似してみるのだ。僕は奥さんの推し語りを聴くうちに、いつしか奥さんの推しの名前や関連する業界用語みたいなものをたくさん覚えた。受け答えの中でそうした言葉を試しに織り交ぜてみると、奥さんは嬉しそうに、ますます熱を込めて推しを語る。僕はいっそう楽しい気持ちになる。僕は奥さんの推しを推すことはできなくとも、奥さんの推し界隈のモノ真似だったらできる。モノ真似で充分、やり取りは豊かになる。

モノ真似をしてるようなところもあるかも しれない。たとえば、スピノザの、「エチカ」を畠中尚志先生の訳で読んで、そのしゃべりかたを真似ようとするのだ。もっとも、いくらかモノ真似ができるとウメボレられれば、ひろいもので、なかなかそうはいかない。
また、毎日、えっちらおっちら読んで、時間をかければ、モノ真似ができるってわけではなく、いつか、ひょいと、モノ真似ができるようになっている。これは、モノ真似のきっかけをつかむというようなことではなく、あれ、おれはモノ真似をやってるよ、とうれしくなり、ところが、そのあとさっぱりモノ真似ができず、まえのもカンちがいだったんじゃないか、とがっかりするといったぐあいだ。
引用は、その本のモノ真似がうまい人がやればいいだろうが、モノ真似ができない者が、そこいらから、かってにやぶりとってくると、おかしなことになる。また、ホンモノを知らない者に、モノ真似をきかせても、なんにもならない。つまりは、「エチカ」をちゃんと読んでる相手以外には、引用を示しても意味ないってことになる。屁理屈だ、とジョーシキは言いそうだが、ジョーシャは毎日をすごしていくためのもので、毎日をすごしていくために、本を読むのではない。だったら、なんのために本を読むのか、とジョーシキはたずねるかもしれないけど、本を読みたいから読む、なんのためなんてカンケイない。しかし、どうして、本が読みたいのか?
田中小実昌『カント節』(福武書店)p.21

自分にとってもっともエモい解釈を追求していくのも楽しい。解釈の余地がないほど異質なものに、変身はできないまでも、とにかくモノ真似してみるのもまた楽しい。形から入ってわかることは、けっこう多い。なんでもやってみればいいし、読んでみればいい。なんのために本を読むのか、本は非常時にどう役に立つのか、そんなことはカンケイない。本を読みたいから読む。名もなき享楽者の一人として、僕はいつでも本を読む。そこに目的も意味もないからこそ、ただ楽しいから読む。日々の楽しみは、何よりしぶとく残るものだから。
そうした日々の楽しみは、日々を、楽しいものに作り替えていく起点でもある。本を読んですぐさま社会を変えていけるわけではないけれど、本を読んで楽しむことで、わからないことはわからないなりに適宜適当に判断したり、日々の息苦しさを相対化して、どうしたらもっと楽しくやっていけそうかを考える余裕ができることはありそうというか、僕はそうだった。
こうも毎日自粛自粛言われると、まるで楽しいことをすること自体がいけないことのように思えてくる。けれどもそれはちがう。楽しいことは、いいことだ。まじでわからんことばっかりの社会において、わかったふうな顔をした「解釈違い」にばかりあんまりでかい顔させないためにも、自分の楽しさには誠実でいたい。
いまできる楽しいことを、存分に遊びつくそうと思う。

特別編 了

柿内 正午(かきない・しょうご)
会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活1 第一篇 スワンからゴモラまで』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』を制作、販売中。どちらも二〇二〇年五月ごろに続刊を頒布予定。

*第1回の原稿は現在配布中の『H.A.Bノ冊子 2020/春 紅・白』に掲載されています。当店の店頭およびwebにて本をお買い上げいただいた方のおまけとして差し上げる冊子です。詳しくは↓

〈著者既刊『プルーストを読む生活』はこちら〉

〈連載第0回はこちら〉


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