王兵『死霊魂』についてのメモ(日記:2020/9/27(日))

9月27日(日)、松本市Mウィング6階ホ-ルにて王兵(ワン・ビン)監督『死霊魂』(2018)を見る。

1950年代後半~1961年にかけての中国で大量の餓死者を出した反右派闘争の「再教育収容所」から辛くも生き延びた人々の証言を集めた、8時間を超える長大な記録映画。全体が3つのパート「明水Ⅰ」「明水Ⅱ」「明水Ⅲ」に分かれており、各パート内部および相互のパートがそれぞれ呼応し合うことで、映画それ自体が思考し、巨大な構造体を作り上げていく驚くべき作品だった。長期間にわたる編集作業による偉大な達成であるように思う。

※以下、今後の再見のための簡単なメモ書き。

1)「埋葬」をめぐる考察。埋葬行為とその機能不全が「深さ/浅さ」のイメージによって対比される。「明水Ⅰ」前半の葬儀シーンでは、亡くなった証言者の1人の棺が地中深く丁重に埋葬される(二人の埋葬人が背中合わせの姿勢になって棺を押し込むコミカルな動作が忘れがたい)のに対し、「明水Ⅰ」末尾および「明水Ⅱ」冒頭、そして映画全体の末尾では、収容所跡地に散らばる野ざらしにされたままの大量の人骨の破片(まともに葬られることなく放置された収容所の餓死者たち)が映し出され、その衝撃的な「浅さ」において、彼らが今なおその人間性を現在進行形で踏みにじられていることを簡潔に示している。

2)(特に「明水Ⅱ」の反復構造において)死者たちの「埋葬行為」を作品自体が試みている。証言者たちのインタビュー映像と、彼らが撮影後に亡くなったことを記す黒地に白の字幕画面を交互に配置した、一見単調にすらみえる構成によって、映画は証言者の、そして彼らの背後でひしめく無数の「死霊」たちの「墓碑銘」を、作品内部に刻み込もうとする。
※パンフレット掲載の監督インタビューによると、各証言は偏りなく「同じ比重で」編集されていることが分かる(「証言のための適切な長さは30分で、すべての証言はこの時間内で編集できることに気付きました」と王兵は述べている)。このように均等な配分を維持した語りを本作に採用した点も、「墓」「埋葬」という主題を考えるうえで注目に値するだろう。

3)「光」と「フレーム」をめぐる倫理的考察(特に「明水Ⅲ」)。
◆キリスト教徒の李景沆が語る、2つの「光」の啓示の話からはじまる第三部「明水Ⅲ」は、窓の「逆光」の下に人物を置くのか、それとも「順光」でとらえるのか、という撮影プランそれ自体が、作品内の倫理的ファクターとして機能しているふしがある。
◆フレーミングの問題。「明水Ⅲ」後半において、本作で唯一監督の王兵自身がフル・ショットでフレーム内に入り込むシークエンスが登場する。そのシークエンスにおいて王兵は誰と同じ画面に映り、フレームを共有しているか。「収容所の元囚人たち」と、ではない。第一部においてすでに王兵は、証言者の1人(収容所の元囚人)の住居の廊下の突き当りにかかる「鏡」に、その全身像をつつましく映してみせているのだが、それはあくまで「鏡像」であり、その鏡のフレームを証言者とは決して共有しない。このフレーミングの選択自体が作品の、そして作り手の倫理的表明となっている。

4)「明水Ⅲ」において、収容所送りとなった男たちの「離婚問題」が取り上げられるにつれ、それまで後景におかれていた「女性たち」の声が徐々にせり出してくる構成となっている。

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