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はじまりに。| Kii

私は日頃、思ったり考えたりしたことを言葉にするのがゆっくりだったり、適した言葉が見つからず発せないまま会話が過ぎてしまうことがある。

感じた気持ちや伝えたいことを、声に出さないまま過ぎれば消えてしまうのかと言うとそうではなく、停滞しているうちに感情で湿って重くなり、田舎まんじゅうのこしあんみたいにみっちり留まってしまう。

一対一の会話なら幾分相手が合わせてくれるだろうけれど、グループでの話となると会話がどんどん展開されていき、話したいことが言葉に現れても発せないままに、きっと意見がないと思われがちだ。

弾む会話の隙間がわからず、間を掴むこともどうも苦手である。

さらに言葉が見つかったとして、果たしてその言葉が最善なのか推敲までしたくなるので、我ながらほんとに厄介だと思う。

私は大阪で暮らしていて、生まれも育ちも大阪であり、日常に笑いの文化がある中で育ってきた。生粋の大阪人と言える。耳にしている会話の速度は全国標準の1.2倍はあるんじゃないだろうか。

生まれ育った家では関西局のAMラジオが流れ、自ずと私も聴くようになり、アナウンサーが流暢に繰り広げる芸人さながらの話術も好み親しんできた。

テンポの速い会話を聴いて楽しむことはできる。でもだからと言って、自分が話せるかと言えば違う。

一方、物事を誰かに紹介したり説明したりするのは好きで、20代から30代にかけては営業の仕事に就き、初めましての電話から購入いただけることもあった。

自分のことでないことは話せるのに、自分の想いや気持ちとなると途端に頭の中に霧がかかり、わからなくなってしまう。

そんな自分に辟易し変わりたいとして、どうしてだったのだろうと過去を振り返って行くと、理由は突き止められるかもしれない。

でも、理由がわかれば解消されるかと言えば、そうとも言えないと思うし、何より最早、人生も長くなれば振り返る時間が長すぎて、向き合う以前に途方に暮れてしまう。

そんな私がこのたび、宇宙の計らいで4人の素敵な方々と出会い、エッセイを綴り、リレーしていくことになった。テーマは「暮らしにまつわること」。

日々目まぐるしく場面展開していく中、丁寧に、と願いながらも次々に現れるタスクをこなすのが精一杯で、つい粗雑に暮らしてしまっている。たぶんそれもまた、私の言葉が埋もれがちな原因になっているではないだろうか。

私が私の暮らしを言葉にしていくことは、私が私をわかるきっかけになるのかもしれない。

私が求めているニーズってなんだろう。どんな私へ向かって行きたいんだろう。何となくそれっぽい淡い輪郭に満足するのではなく、私の真ん中と出会いたい。

自分に語れることなんてあるのだろうか。辿々しく脈絡のない言葉の連なりになるかもしれない、そう懸念しつつ、これから暮らしを綴っていきたいと思う。

目を留めてくださり、ありがとうございます。 いただいたお気持ちから、自分たちを顧みることができ、とても励みになります! また、皆さまに還元できますよう日々に向き合ってまいります。