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父が死んだときの葬式スピーチを考えた。

父の話をしようと思う。これまで、文章を書く時は必ず読み手が誰か? を考えてきた私にとって、これは究極の自己満足であり、誰をも想定していないものなのだが、読むかどうかも分からない、いつか両親が私の記事に辿り着いた時だけを想定して書きたい。娘から見た、父について。

小さい頃から、父は特殊で天才なひとだと思っていた。敬意を評して、ここでは数学者と呼ぶ。

高校の数学教師の父は、小さい頃から私に、一切を強要することがなかった。夏休みの宿題をやれと言われたこともないし、明日学校休むとと言っても、そうかそうか、お父さんも休もうかな、三井グリーンランドとか海に行く? といって、仕事を休んで付き合ってくれるような人だった。学校の先生なのに、学校休むことに一切嫌な顔もせず、なんなら"毎日学校行って皆勤賞めざすようなバカにはなるな"と言っていたような人だった。思春期に悩みひとつないようなアホになるなと。

ただそれは、私が月曜休みがちだったから。きっと皆勤賞の子だとしたら、別の言葉を紡いでいたに違いない。相手を認める、褒める、傷つけない。欲しい言葉を自然と与える。本気の言葉で相手が今一番欲しい言葉をカメレオン的に紡げる、ある意味詐欺師に近いスキルを持っているような気もするが、教育者としては凄まじいスキルであった気がする。

小学生のとき、サンタさんを本気で信じていた私に、同級生から"サンタなんているわけないじゃん、親だよそれは"と言われて悲しい気持ちで帰宅した私が父に"サンタさんっているよね?"と、伝えたときも。とても笑顔で"目に見えない存在を信じないなんて、そんな想像力に乏しい人になってほしくない。"と言い、絶対に有り得ない奇跡を起こしてサンタさんを信じさせるサプライズを入念に準備してくれる人だった。

今でも覚えているのは、マウンテンバイクを買いに行った時、どうしてもその色が何故か気にいらなくて、"こんな色ならほしいかなー"と、子供ながらふんわりとしたワガママなことを言っていた数日後、目が覚めた枕もとに、私が言語化できていないような夢物語の色をつけたマウンテンバイクがサンタさんのプレゼントしておいてあって、子供部屋の二階から駆け降り、"お父さん!サンタさんが私が欲しかった色でマウンテンバイクくれたよ!!"と鼻息荒く伝えたら、"よかったね!"と、満面の笑みで喜んでいた姿を今でも鮮明に覚えている。

今思えば、子供ながらにこれが欲しいというわがままな気持ちを、必死に読解したのだろうと思う。私の幼少期は、父方の母、いわゆる私の祖母が認知症でとても大変な介護が必要だった。そんな家庭が一番大変な時に、娘のわがままをどうしても叶えてやりたいと、きっと必死に動いてくれたに違いない。

20年以上も昔のことだけど、わたしは願い通りのマウンテンバイクをもらえたことの喜びよりも、それを伝えたときの父の嬉しそうな顔の方が鮮明に覚えていて、子供ながらに、実はサンタさんはいないんだ、これを叶えてくれたのはお父さんなんだってことの方が嬉しくて、でもそれは言わない方がいいんだろうなって思ったことを、今でも鮮明に覚えている。

高校生になって。女子校特有のいじめに遭った時も、学校に行きたくないと恥ずかしい思いをしながら父に打ち明けたあのときの悲しそうな顔をわたしはきっと一生忘れない。きっと、これまでたくさんの生徒に対してこの苦しみに向き合ってなんとかしてきたはずなのに、どうして我が娘が苦しい思いをしなければならないのか、きっと大変苦しかったに違いない。わたしがもし今娘がいたとしたらそんな矛盾は耐えられない。なのに、学校にもう行きたくないと言った娘に、"行きたくなければ行かなくていい。明日どこか行きたいところある?"と、有給取ろうとしてくれていた。何なら、"はなちゃんがもし、誘拐されたり拉致されることがあるならば、地獄の果てまでお父さんは助けに行くから、絶対に大丈夫"だと言ってくれていた。父の好きな映画は、シュワルツネッカー主演の古い映画、コマンドだった。

大学生になって、ストリートダンスに没頭したとき。学園祭の大舞台でわたしがセンターを張ったときも。熊本からわざわざ来てくれて、わたしの舞台を、見に来てくれた。多くは語らなかったけど、きっと娘がセンター張って一心不乱に舞台を作り上げたあのイベントを、きっと父はよくやったなと、心で褒めてくれたに違いない。一生懸命打ち込んだことに対しては、言葉なんかなくても伝わるはずだったのだ。全力で打ち込んだことを、きっと応援してくれていたに違いない。わたしのことを、まっすぐ見てくれていたに違いない。

新卒入社した会社の入社式のとき、両親からの手紙を預かっていますと、朗読してくれる粋な計らいがあった。手紙の主は、父からだった。その中で、悲しいときや辛いことがあったときは、どうぞいつでも逃げなさい。逃げるなと言う言葉は、これまで逃げ続けた人を激励する言葉であって、我が娘はこれまでずっと、逃げない人生であったことを父は誰よりも知っている。だからこそ、逃げたいと思う時、熊本の実家でいつでも迎えられるように、わたしは家を守ってきた。逃げたくなったら、いつでも逃げなさい。ただし、その味方が親だけでなく、職場の方や友達や、選択肢が増えていた方が親としては嬉しい。逃げてもいいと言ってくれる仲間を増やせるように、正直に真っ直ぐに、これまで通り元気に真っ直ぐ生きていきなさい。そんなニュアンスのことが書いてあった。実際の文面としてはこうは書いてないけど、私はそう受け取った。

社会人になって、心身共に疲れ果てて救急車で運ばれた時も。多くは聞かず、常に駆けつけてくれて、泣きそうな顔をしながらもひたすら娘を信じ、"辛かったらいつでも家に帰ってきなさい"と、ただそれだけを言ってくれていた。

30を過ぎ、周りも子供を持つようになった中でも独身で仕事第一に生きている今のわたしにとって、父がどんな思いで何十年も高校教師を勤めてきたのか、その背景やキャリアに思いをはせている。定年前に、突如イタリアに行くと公務員を辞めた父、イタリアにいくとき母を日本においてもなお、母はからっと"いってくればー"と笑っていた、そんな母が難病になったら、即座に帰国していまなお働き、医療費を稼ぎ続けている父。

本当なら、結婚して、子供を産んで、祖父祖母にしてあげた方が次の生きがいも渡せたはずなのに、それをしないわたしに対しても、夏休みの宿題を無理やり強要しなかったように、今は色んな生き方があるからね、とわたしは今も、何も強要されていない。そんな数学者の父に、わたしは何が返せるのかなと、ずっと考えてきた。

強要しないことこそが究極の愛だということを、教えられたのかもしれない。そのままで生きていく姿を打算なしに応援し、何かあれば何でも助けると言えることには、どれほどの愛が詰まっているのだろうか。

人は得てして、自分の価値観を押し付けて見返りを求めがちだし、それは当然のことにも思えるが、そうではない無償の愛を注げる相手が、今後一切いるだろうか。そして忘れがちなこととして、親の最初の愛は、名前に込められている。学生の頃から、苗字のさん付け、あだ名、社会人になると当然苗字のさん付けが当たり前となる中で、自分の"名前"を読んでくれる人は、意外と多くない。

下手したら、普段の生活の中で自分の名前は忘れがちになる。時折呼ばれる自分の名前こそ、親の愛のはじめての想いがつまっている。わたしの名前は華子。華やかな人生を。父の父が、中国教育で台湾という異国にいた中で、想いをつなげたいと言う気持ちで中華の華から取ってわたしの名前は付けられたのだという。それを強烈に今思い出して、名前に込められた父の気持ちにすらも、何故だか涙している夜。わたしの名前は、華子だったと、親に会うたび思い出す。

娘は勝手気ままに育って、今では東京港区に住めるほど一人で自立し、父が東京に来たいといったとき、その航空券と滞在時の飲食費ぐらいは出せるまで、健やかに生きている。横須賀のスカジャンがほしかったから東京に来た。そんなの通販で買えるはずだし、どうとでもなる理由なことを、娘は知っている。だけど黙って、5万するスカジャン、次こそは娘が買ってあげますよ。私だって20年以上の昔、ワガママ言って、マウンテンバイクを買ってもらったんだもの。理由とか、あっちの方が安いだとか、そうじゃない。これが欲しいという気持ちを、真っ直ぐ疑わず、買ってくれた父の元で育った娘。こんな心境になったのは数年、育ててくれたのは32年。勝てるわけないからね。

数学者の父は、おそらくきっととても特殊で周りからするとある種面倒な人だった部分もあるだろう。嫌われた人生だったかもしれない。ただその一方で、強烈なファンがたくさんいたことも知っている。その父の教え子たちが、時を超えて娘を助けてくれたりもする。一流の仕事をする人は、嫌われることもありながら、強烈なファンと永続的ご縁をつなぐこともあるのだと、それも父から教わったような気もする。できることなら、親子のつながりを3年だけなくして、父の授業を他人の子として受けてみたかった。数学が得意だったわたしは、きっと熱狂的ファンになっていたに違いない。でも数学が好きだったのは、父の血があったからなのかと思うと、やっぱり他人の子じゃだめか。

社会に出て、実は3回ほど、死にたくなるぐらい挫折したことがあった。だけど、3回とも、逃げてもいいよと認めてくれた言葉と助けをもらえた。結果私は、その言葉に救われて、結局は逃げなかった人生を送れたと思う。そして、そのご縁が数珠つなぎとなり、今の私を作ってくれている。

お父さん。娘は同じように頑固ながら仕事に真っ直ぐな人に育ちました。お陰でかけがえのない仲間、"何があっても君の味方です"と、言ってくれる人と出会えています。1人じゃありません、何人もの人が、そう言ってくれています。何人束になっても父の愛には敵わないとは思うけど。でも、そんな人たちに出会えたことで、今もわたしは、強く逞しく生きています。ありがとう。

お母さんのお土産に買おうか迷ったと言う8000円の刺繍のTシャツ、そんなの今度買ってあげますよ。お金でなんとかなることならば、多少高くてもいいですよ。32年の恩があります。だから私は稼がなくては。父と母の多少の物欲とワガママを、聞けるぐらいの経済力をもたなくてはと、仕事を邁進したい気持ちで今いっぱいなのです。

長くなりました。これを書いていた時は隣で酔い潰れて寝ている父。あと20回は奢りたいなとか思っております。娘と飲む酒が、なによりも父の幸せだと言うことを、娘は誰より知っている。

私は今でも、サンタさんを信じている。父がもし死んだら、このブログの内容を読み上げてやろうと思って言語化したかった。今のこの気持ちを忘れないうちに。

稀有な数学者として、一流の仕事をしてきた数学者の父へ。葬式スピーチとか言うと縁起でもないことでありますが、本当は生きてるうちに伝えたいので言葉にしています。あと20年は生きといてください。これを読むことはないかもしれませんが、読まれなかったらいつか生きているうちに伝えます。生きているうちに恥ずかしくて伝えられなかったら、葬式のスピーチで読み上げます。

ありがとう。これからもずっと、偉大な父でいてください。父が思う以上に、娘は勝手気ままに、意外としぶとくわがままに生きておりますのでご安心ください。またいつか。突如、もし父が死んだとしたら泣きじゃくって言葉にできないだろうから、今まとめます。今伝わったとしても、伝わらなかったとしても、多分思いは変わらないから、父が死んだらもう一回、このブログを読み上げることにします。

新卒の時朗読された手紙は、実は今も大切に手元に持っている。わたしの味方は父。絶対に裏切られることのない父。ただそれだけで、明日も頑張れるような気がする。こんな気持ちになれたのは、今まで懸命に仕事に向き合ってきたからこそ、こんな生き方でもいいんだよとサンタさんが許してくれてくれているのだと、勝手に思うことにした。

次に会うのはお盆かしら。まぁ酒でも飲んで、グダグダなって、ケラケラ笑い合うことにしましょう。

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