教養はあっても

子路第十三 307……多しと雖も、亦奚(なに)を以てか為さん 実践してこそ教養

(原文)子曰く、誦詩三百、授之以政不達、使於四方、不能専対、雖多、亦奚以為。

(書き下し)子曰く、「詩三百を誦し、之に授くるに政を以てして達せず、四方に使いして、専対する能はざれば、多しと雖も、亦奚を以てか為さん。」と。

(口語訳)先生が言われた、「『詩』の三百編を全部暗誦していても、実際に政治をまかせてみると、うまくいかず、四方の国々へ使いにいっても、自分の判断で対応できないようでは、〔暗誦が〕多くできても、何の役に立とうか。」と。ー『鑑賞中国の古典2 論語』(角川書店)

(註)之 詩経の詩を全部暗唱しているその人。 専対 全権を任せられ、自分の判断で外交接渉を行う。奚以為 「奚以詩為」の略。疑問詞だから倒置されているが、「奚」は「為」の目的語である。「詩を以ひて奚を為(す)るのか」とかんがえてみればわかりやすい。もちろん反語である。ー『全釈論語』(福音館小辞典文庫)○「奚」なに-をか。疑問・反語。なにを。何。 主に事物について問う疑問詞。[新漢語林 第二版]

(註)『礼記』学記篇に「記問の学、もって人の師と為すに足らず」ということばがある。「記問の学」とは、いろいろな知識を暗記していて、人から用例を問われると答えるというような学のことをいう。こういう「記問の学」者は、自分では何も物ごとを考えることができず、ただ物知りであるというだけのことであって、こういう人物は、人間や社会の指導者(師匠)として不適であるということを意味する。ー『鑑賞中国の古典2 論語』(角川書店) 

(註)詩ヲヨク学ブトキは.人情世態ニ通スルト.能ク言(モノイ)フノ.二ツノ益アリ.猶後篇ニクハシク見エタリ.学ビナガラ此益ヲ得ザルハ.思ノタラズ.学ブ事ノ浅キト.其ノオノオトレルトニヨレリー『論語參觧』五巻 鈴木朖(離屋)∥著 名古屋 秋田屋源助 明治7刊 5冊

(註)使去声。○専.独也。詩本人情。該物理。可以験風俗之盛衰、見政治之得失。其言温厚和平、長於風諭。故誦之者、必達於政而能言也。○程子曰。窮経将以致用也、世之誦詩者、果能従政而専対乎。然則其所学者、章句之末耳。此学者之大患也。ー『論語集注 影璜川呉氏ホウ宋刊本』書籍文物流通會 ○「使」去声のときは、「つかひ、つかひす」

 専とは、独ということである。詩たるものは、人情に本づいたものであり、物の理を該(そな)えているものであるから、以て風俗の盛衰の験(あかし)となり、政治の得失を見(あら)わしているものである。其の言は温厚和平で、風諭に長じている。故に之を誦んじている者は、政に達して能く言えるべきものなのである。

 程子曰く、経(きょう)を窮めているものは、将に以てその用(効用)を致すべきものなのである。ところが世の詩経を誦んずる者は、果たして能く政に従事して(自力でその場に於いて)専対していようや。然れば則ち其の学ぶ所のものは、単にその章句の末(まつ)だけであるということであり、此のことが学者の大患なのである。ー『朱子集註論語全訳』(白帝社)



 



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