私が小室圭さんを応援している意外な理由。
われらが小室圭さん、やりました!!
今年7月に挑戦していたニューヨーク州の司法試験に見事合格されたとのこと。誠におめでとうございます!!
小室さんは昨年7月、今年2月とこの試験に不合格で、今回は3度目の挑戦だったとのことですが、今回の受験者数は9609人。このうち小室さんと同じく“再受験”した人は1610人もいて、合格率は23%とのこと。かなりの難関ですよね。
そもそも母語ではない言語で資格試験に挑むということ自体、とてつもなく野心にあふれていて、尊いチャレンジだな、と思ったりするわけです。自分だったら、とてもできないですもん。
——という、ここまでの書きぶりから察していただける通り、私は皮肉を込めたわけでも何でもなく、小室圭さんの合格及び彼の今後の歩みをわりと応援しています。
まあ、こんなことを書くと「アンチ小室圭」からおびただしい数の矢が飛んできそうですが、応援しているものは仕方ありません。彼に頼まれたわけでもありませんし、むしろ私などに応援されても彼にとっては甚だ迷惑かもしれませんが、これまた応援しているものは仕方ありません。
なぜ、私は一度も会ったことのない、どちらかと言えばメディアからは負のイメージしか伝わってこない小室さんを応援しているのか。ひとつには、「メディアからフルボッコにされた経験」に共通項を見出してるからかもしれません。
こればっかりは同じ経験をしたことのある方にしか理解できない感覚だと思いますし、理解されたいとも思わないですし、みなさまにおかれましても理解できないままの人生をお送りいただくほうがよろしいかと思われるのですが、やっぱり親近感を抱いてしまうのですよ。「おお、おまえもか……」と。
もちろん、いわれなき叩かれ方をしている方も(少数ながら)いれば、叩かれて当然だろうという方も(私はこちらになります!)いるのですが、たとえ後者にしたって疑問に思うのは、「罪と罰が釣り合っているだろうか」ということ。
たしかに本人は批判されるべきことをしたかもしれませんが、しかしその「しでかしたこと」と「世間から食らった社会的制裁」とやらのバランスが取れているケースって、ほとんどないのではないかと思うのです。あきらかに「犯した罪」よりも「受けた罰」のほうがはるかに上回ってしまっているのではないかと思うのです。
おっと、どう読んでも自己弁護にしか聞こえなくなってきてしまったので、話を次に進めます。
私が小室さんを応援するふたつめの理由は、いま挙げた「ごく私的な感情」からではなく、むしろ「社会的な文脈」からです。
というのも——。
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