見出し画像

菱田春草と上村松園~春草晩年の未完成画《雨中美人》をめぐって~(5)

おわりに
 このように、春草と松園には同輩として浅からぬ接点が確認でき、互いに影響し合う姿を想察できる。その過程で、春草が、松園作品から傘と女性群像の造形的な可能性を認識し、それを《雨中美人》のモチーフに活かしたことから、両者の作品の間に造形的な共通点を見出せると考え得る。
 春草は、論文「古画の研究」で、作画には「古画の研究」、「写実の研究」、「自己の考按」が不可欠だと述べた[註28]。松園は、諸派の縮図で研究を重ねるとともに、師の竹内栖鳳から写生の重要性をたたきこまれ、それらを消化して独自の美人画を生み出そうとしていた[註29]。春草は、三つの必要条件に松園が合致するとして、彼女の作品を評価していたのではないだろうか。だからこそ、作品依頼に対し、松園の画風を考慮し、彼女好みの美人図で応えたに違いない[註30]。春草がその後の《雨中美人》の構想で、逆に松園作品からヒントを得たとしても、自然な流れだったといえよう。
 春草の《雨中美人》が完成していたら、自身はどんな言葉を残し、松園はどう見ただろう。《雨中美人》が未完のまま1911年に春草が亡くなり、永遠にその言葉を聞けなくなったことが悔やまれてならない。

<註>
[28]菱田春草「古画の研究」『絵画叢誌』第279号、1910年7月(下伊那教育会編『菱田春草総合年譜』(下伊那教育会、1974年)、156~157ページに所収)。
[29]草薙奈津子『日本画の歴史 近代篇』、中央公論新社、2018年、197ページ。山田諭「上村松園の芸術―最後の古典作家―」『上村松園』(京都市美術館・大谷幸恵編)、青幻社、2021年、166~167ページ。
[30]松園は春草を尊敬していたことから、作品制作を依頼したとされており(鬼頭美奈子「上村松篁と芸術観」『革新者たちの挑戦 よき人よき友 松篁を見つめた人々』、松伯美術館、2008年、15ページ)、できあがった《仙女(霊昭女)》を松園はたいへん気に入り、座右の宝として生涯大切にしていたと、松園の孫の上村淳之氏が語っている(『革新者たちの挑戦 よき人よき友 松篁を見つめた人々』、松伯美術館、2008年、5ページ)。この作品を受け取った数年後から、松園が《楚蓮香》(1914年頃)、《楊貴妃》(1922年)、《梅下佳人(羅浮仙女図)》(1924年)などの唐美人を画題にした作品を描くようになったのは、春草の唐美人図から影響を受けたからとも考えられる。そこまで松園に気に入らせた唐美人図を春草が真摯に描いたことを鑑みると、逆に春草も松園に対して好評価や敬意を抱いていたとみることもできるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?