音楽における楽譜の役割とは

 私たちが「音楽」と聞いたとき、まず何を思い浮かべるだろうか。「音符」、「ト音記号」、「五線」など、これらはすべて楽譜を構成する要素である。専門的に音楽に関わる、関わらないに関係なく、私たちは幼少の頃から、学校の音楽の授業などで五線譜という楽譜に親しんできた。日本では、音楽といえば楽譜が存在することが当たり前であり、楽譜はとりわけ西洋音楽の普及に重要な役割を担っていたというべきであろう。
 そもそも楽譜は何のためにあるのだろう。基本的には、音は出された瞬間から減衰し、時間の流れの中で消えていくものである。その消えていってしまう音のまとまりで構成される音楽を、永続的に他者と共有するため、抽象的に記号として記すものが楽譜である。他者というのは、現時点で対面する相互の関係だけではない。時間や空間を超え、遠く離れた人々や時代の異なった人々をも含み、それらの多くの人々が同じ音楽を共有することが可能となるツールが楽譜である。
 ただ、楽譜があるからといって、すべての人がその音楽を全く同じように共有できるわけではない。現代ではテクノロジーの発展によって、楽譜をコンピュータに打ち込むことで、その音楽を楽譜どおりにコンピュータで再現することができる。しかし、音色を実際の演奏の音に近づけることができたとしても、また、音の強弱をつけることができたとしても、そこから出てくる演奏は無機質な印象しか感じられない。ここで重要になると考えられるのは、演奏者が楽譜を通じて、自ら表現する生きたリズムである。
 一つの例として、「ジャジャジャジャーン」で有名なベートーヴェンの交響曲第5番「運命」をあげてみる。冒頭の有名なフレーズは譜面上、休符から始まるが、そのことは意外と知られていない。楽譜どおりに3つの八分音符と1つの二分音符の音を出してみると、確かに有名な「運命」のフレーズだが、最初の八分休符の有用性は全く感じられない。しかし、実際の演奏を聴いてみると、この曲の冒頭の切迫感は休符で表現されていることがわかる。演奏者の息をのむような休符からの4つの音の動機、その休符の間合いや速度といった表現方法が演奏者によって違うことこそが、曲の生きたリズムの面白さを表している。
 もう一つ例をあげてみよう。ヨハン・シュトラウス2世の「美しく青きドナウ」をはじめとして、「ウィンナ・ワルツ」という優雅な曲の数々がある。ワルツは3拍子であるが、単純に3つの音を等間隔に出すだけでは、曲がもつ優雅な雰囲気は出ない。ウィーン・フィルなどの演奏を聴いてみると、等間隔の3拍子ではなく、1拍目が短く2拍目が少しずれて長めの独特な3拍子となっている。楽譜には示されないことだが、演奏時の独特な生きたリズムで表現されることにより、曲の優雅さを実現している。
 音楽にとって、特に西洋クラシック音楽にとって、楽譜は、時空を超えて作曲者と演奏者をつなぐ重要な役割を担う。楽譜が成立したからこそ、普遍的ともいえるクラシック音楽が生み出され、広く伝達され普及してきた。しかし、楽譜どおりに機械的に弾くだけでは、演奏者から聴衆に音楽の良さは伝わらない。実際の演奏では、演奏者が楽譜から作曲者の意図を自分なりに読み解き、奏でるものである。それは、作曲された当時の作曲者の意図とは違うのかもしれない。あるいは、今の時代に置き換えられた同時代的解釈によるものなのかもしれない。しかし、そうした解釈の違いも、演奏者が生きたリズムをもった音楽を生み出す面白さである。
 そう考えると、楽譜は、料理のレシピのようなものだ。料理をレシピどおりにつくったとしても、それなりにできあがるという意味では、レシピは大切なツールではある。ただ、料理人がそれを使用しながらも、独自にもつ技術や感性によって、オリジナリティに富んだ料理ができあがるものである。同様に、演奏者は、楽譜に現れた部分だけでなく、内部に存在する作曲者の意図や思いを真摯に読み解き、自分なりの生きたリズムをもって表現することで、自分の理想とする音楽を奏でる一歩を踏み出すことができる。楽譜は、演奏者にとって大切なレシピという名のツールである。

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