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理想世界への思いを表現する小京都「平泉」

 日本では、地方都市を表現するのに、「小京都」という美しく魅力的な表現がある。平安時代末期、「小京都」ならぬ「みちのくの京都」とも言われ、平安京に次ぐ大都市が東北地方に存在した。それが、岩手県南部の都市「平泉」である。
 11世紀末以降、約100年にわたって繁栄を極めた奥州藤原氏の本拠地が平泉である。初代清衡が造営した煌びやかな金色堂と大伽藍を備える中尊寺、二代基衡が造営した大堂塔と広大な浄土庭園を備える毛越寺、三代秀衡が造営した平等院鳳凰堂を模した無量光院や政庁の柳之御所など、要所に大寺院や大政庁を配する拠点都市が形成された。中心には大路が通り、金や名馬の産地として交易により大きな利益を得て、都市は豊かに栄えた。しかし、四代泰衡の代で源頼朝の攻撃により奥州藤原氏は滅び、その後平泉では、度重なる戦火や火災で多くの建物は消失して、江戸時代には現在の姿となった。
 現在、平泉の町を歩けば、住宅と田畑が広がる普通の田舎の風景が見られ、大都市だったとはとても思えない。松尾芭蕉は『おくのほそ道』の平泉の章で、「夏草や兵どもが夢のあと」の句を残したが、確かにすべてが幻であったかのようである。しかし、今でも、中尊寺には金色堂や経文等の国宝級の遺物が、毛越寺には美しい浄土庭園が、そして町に点在する重要な遺跡が大切に受け継がれ、夕陽に映える金鶏山や北上川といった美しい風景とともに残った。毎年多くの観光客が訪れ、昔の栄華に思いをはせることができる観光都市となった。
 2011年、平泉は世界文化遺産に登録された。資産名は「仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」。戦乱による悲惨な体験をした初代清衡が浄土思想に基づいた平和な世界を望み、二代・三代に引き継がれ、寺院や庭園などの造営によりこの世に理想世界を造り出そうとした。取り組みは100年で潰えたが、その思いは、良好に保存される寺院や庭園、遺跡によって多くの人々に伝えられ評価されている。「理想世界への思いを表現する小京都」、まさに平泉にふさわしい姿が今に残っている。

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