『おくのほそ道』からみる俳諧文学と蕉風俳諧の展開

 日本文学史における紀行文の代表的な作品とされるのが、江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉による『おくのほそ道』である。これは、江戸から奥羽・北陸を経て大垣まで全行程約600里、約150日にわたる行脚の様子を俳句とともに記した紀行文である。
 もともと『おくのほそ道』において、芭蕉の目的は、古歌に詠まれた歌枕を訪ねて、神社・仏閣や景観地を巡ることにあり、そこでの率直な思いや感動を数々の句によりあらわした。その重点はそれぞれの場所で詠まれる句にあり、紀行文というだけでなく「俳文」の一つとしての認識もあったととらえられる。当時の文芸において、漢詩に漢文、和歌に和文という伝統があるように、俳諧にも俳文があるべきと考え、俳諧に携わる俳人による俳諧性を有する文章として、本書は認識されたと考えられる。また、旅が終了した後、約5年後に本書が完成したという事実からも、周到に構成を練り上げられた理想的な俳諧文学を目指した作品であるととらえられる。
 このような単なる紀行文ではない俳諧文学を創造しようとしたことは、『おくのほそ道』を通じ、日本文学史における俳諧の位置づけにおいて、独自の蕉風俳諧を展開しようとしたことを意味し、その意義には次のような特徴がみられる。
 まず、それまでの談林俳諧でのおもしろみを重視した俳諧から、様々な事象や風景に触れることにより生み出される心象風景の描写を実践する俳諧の確立である。有名な「古池や」の句によりその境地を表現することになったとされるが、同様の心象表現を重視した句は、本書においても「立石寺」の句をはじめ数多くみられ、一つの完成形としてとらえられる。
 また、古典が作り上げる約束事を活用し「風雅」の道を切り開くことを、本書においても実践したという点である。芭蕉は、五七五という世界で一番短い文学様式において豊かな内容を盛り付ける方法を生み出した。和歌や連歌の特徴である、俗を取り除き雅の文芸として大成したことを踏まえながら、俳諧において、俗の部分を扱いつつも和歌や連歌に匹敵する作を示そうとしたのであり、それは本書において如実に表れているといえる。
 さらに、特に重要であるのが、芭蕉独自の視点の発見とその後の展開につながることとなった考え方の確立である。一つが「不易流行」であり、永遠不変な本質を表す「不易」と一時たりとも停滞しない変化を表す「流行」といった相矛盾するものを統一させる絶対的な理念として「風雅」があるとした。もう一つが「かるみ」であり、高い心境をもちつつ、表現は軽く平淡に詠むことを理想とする考え方である。前者では、この旅で様々な人や事柄に出会い体験したことを通じて、変わり続ける諸相の中に普遍的な真理を見つけ出すことを感得した境地である。後者では、晩年に提唱される考え方だが、すでにその萌芽は、本書の最後の「大垣」の句でもみられるとされる。
 このように、『おくのほそ道』は、芭蕉俳諧の基盤となる芸術観が確立する重要な俳諧文学であり、ひいては文学史における芭蕉俳諧の確立につながったという点で、日本の文学史において重要な意義と価値があるといえるのである。

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