こんな人間だったとしても

自分がノリと勢いで生きる人間だってこと

行動力があるけど、良くも悪くも失敗しやすいこと

責任感はあるけど、強すぎたり責任についてよく分かっていないこと

責任に対する感覚がにぶいこと

結果責任感がないことにつながること


楽観的、短絡的

自分の感性や考えをひとに押し付けやすいところがあること

人の見方や、全体像、細かい仕組みなどものごとの深さがよく分からない時があること

だから考えるよりもやってみる方が早いこと


それが良いことにつながる時があるけど、1人で事業をやっていくにはあまりにも無責任で失礼な人になってしまう。


今更困った人を助けたいとかは偽善で

本当に困っている人より

自分が助けたい人を助けたい思いの方が強いこと


わたしは、自分より下の人のために何かしてあげたいと思っていて

世話をしたいっていう感覚だけど、

都合が悪くなるとすぐやめたくなる

やめないけど



そこに信念みたいなものはなくて

むしろ、自分を大切にしたいから

人を大切にするための自己犠牲がいやだし、気持ちが乗らないとそこまでしたくないと思うことがある


いい人ぶるのは得意で

内心、人に興味なくて

自分に興味をもってくれたらラッキーって感じ


そんな今のわたしのやり方は、

興味持ってくれる人には親切に

でも、本性がバレて嫌われるかもしれないとビクビクしながらも

嫌われても仕方ないと最初から諦めてて

嫌われない努力とか

嫌な思いをさせないっていうのがあんまりよく分かっていない


フィーリングで動くから

礼儀や理論や社会性を求められると応えられないことがある

心を許せる人にはとことん、礼節わきまえず行ってしまうことがある


事業を始めたのは、

誰かを救うことよりも、

自分が次出産する時までに何かを変えておきたかった

それが本音


義理の家族を頼らなくていいように

それだけ。


あとからそれっぽく色々つけたした。


お母さんの孤独も

死んだ理由も、仕方なかったと完結してる

わたしはそれ以上親身になろうとしていない


おとうさんの無神経さが嫌いだから

ポジティブでいることに抵抗があって

何にも考えてない人が嫌い

楽観的な人が嫌い

思いやりがない人が嫌い


それに振り回される人がかわいそうだと思う

本当は自分もそんな生き方がしたい

それしかできないくせに、否定してるから生きづらい


どうせどっかに勤めてもすぐやめたくなる

どうせ合わない

合わせられない


だったら夢語って生きてる方が楽っていう安易な考えなのかもしれない。

もうちょっと現実を見るなら

自分でやるより

だれか親身になってくれる上司の下でできることをやらせてもらう方がもっと楽だ

そういう理解のある職場でさえあれば

それなりにやっていけるのかもしれない


そこまで考えずに

1人が楽だという安易さから自営をしようとしたのはアホだ

わたしにできる仕事なんてない


今が耐える期間って捉えてたら色んなことを逃しそう


めちゃめちゃダサい

中途半端なことばっかり

人に迷惑をかけたことまでポジティブに、受け流すのは無神経と同じ

同じなんだよ、悲しいことに


そうやってお父さんは、お母さんの死も深く溜めずに生きていく

同じになっていいのか



ここにきて、自分の無神経さと

ポジティブという名の無責任と

徹底的に逃げ、回避、リセットという自分の選択肢と

主張や個性の上で成り立っているはずの自信が、実は個性の範囲を越えていて

社会生活に支障をきたしているというレベルに値するなら


わたしはパーソナル障がいなのかもしれない。



今まで受けた病院で、いろんな病名を言われたことがあるけど

その陰に隠れているのはこれかもしれない。



一時は、双極性障害、それから不安障害、

それから、気分障害。

ひどい時期があった。ある程度回復したけど、微妙なラインをさまよってる。


まわりに発達障害を疑われたときもあったけど、

違うと言われた。



自分の中ではただ自立心が低かったり、誰かという存在をあてにしている他力本願なところとか、

物事を短絡的に考えすぎるところ、慎重さに欠けるところ

テンパりやすいところ、人に気を使いすぎてしまうところ

ストレスに弱いところ、すぐに切り換えられないところ


どれも、ふつうの人と同じように備わっていないから仕方ないと思ってる。


普通の家庭で育っていたら、感じなくていい悲しい思いをずっとしてきて

普通の子が何も考えずに家であったかいごはんを食べて、ぬくぬくとあったかい布団で寝て、さみしくなったら話を聞いてくれる誰かがいて

朝は気持ちよく起きれて、朝ご飯が準備して会って、

遅刻しそうになったら送ってくれて、それ以上は知らんけど


余計なこと何にも考えずに生きてこれた人と違って、

帰ったら、ご飯があるかを心配して、

食べるものがなかったら、コンビニでお菓子を買って、

お風呂に入らせてもらえない時もあって、

洗濯ものは自分で洗うけど、乾くかどうかを心配して、

ふとんがどうとか知らんけど、とにかく寝心地とか気温とかも含めて寝れなかったらマンガ読んで夜更かしして

朝起きれなくて、準備ちゃんとできなくて

朝ごはん食べてなくて遅刻して怒られて気分悪いまま授業受けて、

すがすがしい友達にムカついて

体操服に着替えて自分のが少し濡れてても気づかれないようにして、明るくふるまって

帰る時間になったら、また帰ってどうしようかって、考えてる。

何がほかの子と違って、自分はどうふるまったらほかの子より劣って見えないか一生懸命まわりに目をこらして自分と比べて少しでも見た目が劣らないように、負けたくないという気持ちとか、すごいって言われたい気持ちとか、いろんな葛藤を毎日抱えながら、悔しい思いをしたり涙をたくさん流して、誰に助けを求めていいか分からなかったし、とにかく普通にしていたかったから、突然心配されても素直になれなかった。

だから、全然平等なわけがない。

普通の子より、余計なこといっぱい考えて生きてきたし、承認欲求や愛着が欲しいのは当たり前のこと。それが、社会的に見て、少し人とずれてるのは当たり前のこと。

これがその環境で育つべくして育った発達であって、でも社会的には発達障がいとか精神疾患の名前がつくんだと思う。


成長の過程でもずっと、実は敗者で、社会に出てからも敗者になりやすいのは当たり前。

そうならないために何倍も努力をしなければいけないし、それを認めてくれる人がいるのかは分からない。

努力の仕方が間違うと、孤立したり浮いたりもする。



わたしはずっと、自分がこうなったのは仕方ないと思っている。

むしろ、自分を責めてるひとをみたら、その人のせいじゃないって教えてあげたいくらい


そうなるべくしてそうなった。

不利な環境だった。

そこで、自分がどうしたらいいかを気づけなかったのも仕方ないとしても、そのことだけで終わってしまったら、私は一生このままだ。

悲しかった、さみしかった、つらかった過去だけでおわってしまう。

大切にしようとしなかったら、うれしかったことも幸せだった時間も忘れてなかったことになってしまうかもしれない。

環境のせいにして、自分でできることに気づこうとしなかったらわたしの人生はそれで終わってしまう。

少なくとも今までは、そうやってまわりのせいにして自分のできそうなこととか自分でどうするかを考えてこなかった。いや、自分なりにいろいろ環境に適応しようとやってきたことが違っていた。

間違った方向に頑張っていたというのもあるかもしれない。


環境をうらむあまり、まわりを受け入れず家族も今まで出会った人もみんな自分にとって嫌な人達で終わってしまう。

そういう関係性しか築けないことが私の自信が自己の主張と個性に偏ってしまう原因かもしれない。


本当の自信は、自分の中に探したり、考えてわいてくるものじゃないのかもしれない。

他者とのつながりや、出来事の中で生まれてくるのかもしれない。




とにかく誰かに気にかけてほしかった。

大事にされたかった。

生まれてきてよかったって思えるような出来事があったらよかった。

もっとたくさん話がしたかった。

話を聞いてほしかった。



いきなり、誰かを信じたり、元気になんかなれないけど

誰にも言えなかったことを全部吐き出したら

すっきりして、前に進めないかなぁと思う。



生きてても死んでても同じだと思っていたし、また次の日が始まるのが嫌だった。

誰にも必要とされていないし、必要とされてる実感なんかないのに簡単に信じたりできなかった。

うすっぺらい励ましのことばとか精神論はまったく意味がなかった。

とにかく心をゆさぶるような、生きている感覚がほしくて愛されたかった。




こういう思いを強みになんて、簡単にできない。

これをポジティブに変えれる日は来ないかもしれない。今までの出来事を受け入れて前を向く力が自分にあるか分からない。

そのうえで誰かの為になろうなんか本当は思えないかもしれない。


わたしって自分のことで精一杯なんだ。

全然人のことを考える余裕なんかないんだ。人よりも自分を救ってほしいって思ってる。

いつか人を救うことで自分も救われるかもしれないと思っていたけど、そもそもどうやって人を救うんだろうか。

自分が救える人を探している間に、みんな自分の力で何とかしてる。



でも、落ち込んだままで終わりたくない。

知らんけど、私にできることはないかもしれんけど、

障がい者だったとしても、それでも生きていかないといけないんだから

そんな覚悟は少しわいたりわかなかったり。


事業とか言ってる自分が醜態さらしてることも

早めに気づいたんだから、なんとかなるんじゃないかっていうまた

短絡的思考。


わたしはこの先もたくさん間違えると思う。

間違えることに開きなおっていいのかは分からないけど、間違わないために考える力とか、身につけておいた方がいいこととか、投げっぱなしにしないで自分のことぐらい自分でコントロールできるようになりたい。


うすっぺらい自信家で、頭が悪かったとしても、

なんかいいと思える事一個くらいあったらいいんじゃないか。

生きてるだけで丸儲けとかそこまで、思えないけどほんとにそれでよかったらいいんだけど。


どんな不利な状況でも、明るく生きてる人はいる。

そんな中でも成功する人もいる。


成功まで、望まなくても、

わたしも今持ってる何かとかなんかちょっとした心持とかでもしかしたら幸せでいられるのかもしれない。

たまにやってくるネガティブとか、不利な状況もとらえ方でなんとかならないかな。

いちいち不安になっても、ゆらいでもいいんだけど、

今の自分でもいいんだけど、

人を大切にするコツとか、穏やかに過ごせてゆるがないなんかあったらいいな。

旦那がタバコ吸うみたいに、一瞬で息抜きできたり、切り換えれたり

そういう生きていく手段はあるに越したことない。


買い物依存とか、甘いものに走るのとかはもういいし、

社会批判とか、ボランティア活動とかそういうのもなんか違う。


最近少し、自分よりこどもが大事に思えてきた気がする。

それから自分より旦那さんを大事にしてあげた方がいいと思うようになった。そんなことから、都合よく始まってたらいいな。むしろ依存とか勘弁だけど、人を大切にできるって、自信になるかもしれない。





こうやって、読んでくれる人がいるかもしれないという気持ちの吐き出し方は、

ただ、一人でノートに書きこむのと違って、むなしさをあまり感じない。

誰かがいてくれる感覚に近い。

例えほんとに読んでなかったとしても、わたしのどんな汚い文章も読んでくれる人がもしかしたらいるかもしれないという思いは希望に似てる。








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#ダサい #精神年齢がティーンのまま

 #現実逃避してたらこうなった

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#糸口であってほしい #前に進むことを考えてる

#はけ口にしてすみません #誰にも本音で話せない

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#聞いてほしい #間違ってても

#ぶっ生き返し

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