得意不得意という考え方

発達や、社会に適応できるかできないかという部分で

私はどうしても原因を追求してしまう

無意識に誰かのせいにしたいのかは分からないけど

自分に対しても
人に対しても

知らないことはできないし、
やったことはできない
という考えがベースにあるから

自分に対しても他人に対しても寛容な方だと思う

だけど、世間は違って
なかなかそんな生やさしい見方をしてくれない
偽善ととられる

世の中はそれだけ切羽詰まってる


わたしにはできないことがたくさんある
できることもたくさんあるけど、
社会でうまくやってくために
できないことがたくさんあって生きづらいと思うことがある

その原因を考えた時
どうしても、自分で育った環境のことが頭から離れない

我慢、不安、不満、

もっとこうだったら、こういう自分になれていたかもしれない

子ども時代に母が居なくなったこと
愛着対象がいなくなって
代わりになる人がいなかったこと
自己肯定感を育めなかったこと
人間関係に必要な信頼関係をきずく経験をしてない

だから、社会に出ることは不利だし
もうどれだけ頑張ったかは分からないけど
もう頑張れないし頑張りたくない

頑張り方を間違えていたのかもしれない

それでも前向きにいきていくために


環境や育ちのせいにしててもはじまらないのは分かる

大事なのはこれからだし
自分のやり方次第
 


だけど、どこかに受け止めてほしかった思いや
悔しさや不満が

世の中をそういう見方にしてると思う


どの本見ても
発達障害は育ちや環境のせいじゃないって書いてある

分かるよ。
育て方が悪いとか環境が悪いとか責めたいわけじゃない


要因の一つとして、家庭のあり方とか関わり方は少なからずあるから
軽視して欲しくないと思う

それは、自分の幼少期からの思いそのもので


社会にぶつけるもんじゃなく
自分の親にぶつけることだった


ぶつけてみて今は、
そうやって考えることが自分自身の子育てを苦しめるから手放したいと思う

子供の、気になる行動が出た時
その様子を見た時、

親の関わり方や家庭環境が気になる

問題点探してしまう


それはあくまでも色んな状況が重なったなかでの結果論かもしれない

そういう傾向がある
そうなる可能性が出てくる

程度のもので

原因、ではなくて
要因のひとつでしかないのかもしれない


色んなヒントや条件が重なる


その中でも本人の得意不得意もあって重なるのかもしれない

それを助長したり、強めてしまうことがあるかもしれない

逆に弱めたり、うすめることもできる


持っているものは本人のもので

わたしはそのことが理解できたら
援助や支援、見守ることだけに目をやって

評価したり
判断する必要なはなくなる

それはどうでもいいことのひとつとして
脳みそで処理できるようになるかもしれない


育て方も環境もどうでもいいことだよ

本人がどうなりたいか、
どう過ごしたいか、

大事なのはそこだけなのかもしれない。


それを理解したり、支援する、方法を提案する、見守る

それだけかもしれない


あくまでもささやかな
ほんの一部分に関われるか関われないかそれすらも分からない一瞬


わたしは何者にもなれないから
自分の人生を生きたい

誰かに捧げるだけの時間だけじゃなくて

削れるだけじゃなくて
自分の守備範囲で
行動範囲で
できる範囲で


出来る事を見直して

立て直したい


できるかできないか不安になるくらいなら
出来ることだけ

不安になることはせんでよし

それがわたしにできることと、できないことを分けること


えらいでっかい夢を持ってみたもんだ


無理してる自分は終わり


たまに無理しててもいいんだけど



#自分を見つめる

#発達のこと
#試行錯誤

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