『白鴉』34号


 2024年5月25日発行の『白鴉』34号に「メッツェンバウムは届けられた」を発表。

この号での編集後記
 なぜ自分が反差別の立場にいるのか。もしくは差別すること、差別そのものについて批判的な視点を持ちえているのかということについて考えることがある。
 もちろんこれまでいかなる属性への差別心も持たなかったわけでも、そのようなふるまいをしてこなかったわけでもなく、いまでも注意するべき点があることを自覚しているし、改善していこうとしている。
 自分自身が疑わしい理由については、私自身の生きてきた時代の空気や環境から、これまでに冷笑的な思考や態度が身に染みついてしまっており──皮肉なことにそれが私の作品のとある魅力を引き出す要素となっているらしいのではあるが──この思考や態度はもちろん、差別ととても相性がいいからだ。
 それでいてなお、私は反差別の側にいる。すくなくともそうであるように心がけている。そうでありたいと強く願っている。私のような人間が反差別を基盤とした作品を書くことは許されるのだろうかと思考の袋小路に嵌りこむ瞬間もなくはないが、意識的にであれ無意識的にであれ、差別感情を微塵も持たない人間などいるだろうかと考えたとき、こんな人間でも何も書かないよりはましだろう。冷笑的な思考や態度が身に染みついてしまっているなら、それを武器にするしかない。冷笑によりあらゆるものから距離を取るならば、その一方で、書くことに対して誠実でありつづけ、どこかで綺麗事の重要さを認識しつづけることが必要なのだろう。
 差別に対する私の態度、立ち位置については古き良きSNS、mixiで知りあって以来、二〇年ほどの(ちゃんと計算はしていない)知人である岡和田晃氏の影響によるところも大きい。二〇一三年、彼に米田綱路『脱ニッポン記』を教えられ、読んで以来、権力への復讐、などとかっこいいことをさいきん言い放った私の文学観の指標は定まった。調べてみて米田綱路氏が『図書新聞』ゆかりの人物だと知り、いつかはあそこの文芸時評に取りあげられるような作品を書こう、などと目標を掲げていたら前号の作品「うまれるところ」で達成できてしまい、早いわ、と思わず突っ込みはしたものの、素直に喜んだ。

投げ銭はかならず創作の糧にさせていただきます。よろしくお願いします。