詩のフェスタひょうごと朗読と十三の夜と『アンチレイシストであるためには』とさまざまな差別と

 10月3日、元町駅から北上したところにある神戸市教育会館にて、「詩のフェスタひょうご」。となりのラッセホールにはエルマール文学賞関連で何度か足を運んだことはあった。第一部は高階紀一氏の講演。思えば3年前、ひさびさに詩を書きはじめようととりあえず詩集を読むのにとっかかりとして読んだのが高階紀一と平田俊子だった。詩とはどういうものであるかという内容。第二部より、応募者による詩の朗読。13名ほどが参加し、私は12番目。一時的な筆名、尾本善冶のままだったら3番目になっていた。終わるたびに拍手が起こるわけでもなく、淡々と進む。第一部のときよりも人は減っているとはいえ、壇上にあがると緊張した。読んだ詩は「椅子がない」。意識的に足でかるくリズムを取っているとすこしは気が紛れた。なんとか終えて席に戻り、最後の人のをなんとなく聴いて終了したかと思えば記念撮影で、私はもちろんマスク装着のまま臨むのであった。ふたたび席へ戻ろうとしたときに声をかけられ、詩を褒めていただき、詩歴を聞かれて2年と答えたが、お気づきの通り、ほんとうは3年だった。詩の同人誌に入っているかと聞かれて入っていないと答える。『babel』は休会したし。
 手ごたえもあってわりと上機嫌で駅まで歩き、十三で映画。『ベイビーわるきゅーれ』の監督、阪元裕吾氏による『黄龍の村』。予告編で前知識として得られる展開が早く来て全滅、したかと思えば、のどんでん返しで、フェイクドキュメント風ホラーかと思っていたらいつの間にかアクション映画に。アクションそのものに多少言いたいことはなったわけではないけれども、まあ満足した。監督の映画作品、これで3本目。終映後は舞台挨拶。帰りに十三駅へ行ったら人々の歩きかたが規制されていて、なんだと訝しんでいると、床に点々と茶色い汚物がつづいていた。緊急事態宣言が明けたんだなあと実感したひとときだった。

 イブラム・X・ケンディ『アンチレイシストであるためには』(辰巳出版)を、あと100ページ弱で読み終わる。差別主義者や差別者だと誰もが嫌がることだろうし、みんな自分は差別とは無縁だと思っているだろうし思いたいだろうし、私自身もご多分に漏れずその通りで、その実、ほんとうに差別などしていないかと問われればけっこう怪しい。そしてそれを自覚できていて、さらに自分で是正していこうという意思があるならまだましで、だいたいの人は自覚していないか、自覚しようとしないか、自覚して開き直るかしてしまう。この本では、そうした、著者自身の無自覚だったもろもろの差別意識を掘りさげていきながら、レイシストへの対抗策としての「アンチレイシスト」とはどのようなポリシーか、ということを突き詰めていく。読んでいて自分もなるほど様々なかたちで無自覚にあらゆることへの差別意識を抱いてきていることがわかるし、差別意識との向きあいかたもつかめてくる。
 また、レイシズムという言葉を使うわりにそれがいったいどのようなことなのかははっきり知らなかったりするし、そもそも人種というものでさえ、ほんとうにははっきり把握できていないままでいるのが現状だろう。自分がほんとうにはレイシズムというものがわかってはいないし、だから、差別とどう向きあえばいいのかという「正解」もおぼつかない。この本にはそうした事象への向きあいかた、考えかたのヒントを与えてくれる。とりあえず資本主義とレイシズムは双子だったという有意義な事実を知ったので、これのあとデュボイスの『黒人のたましい』を読んだのち、ウォーラーステインを読んでみようと思うのだった。そして私はいつ尹健次へ戻れるのか。そして生まれ変わったら歴史学者になりたい


さいきん読み終えた本
北村紗衣『批評の教室──チョウのように読み、ハチのように書く』(ちくま新書)
トム・ストッパード『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(ハヤカワ演劇文庫)


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