甲斐バンド1986武道館

1986年の甲斐バンド(と二十歳の僕と)

1986年3月3日、ちょうど三浪することが決まって呆然としていた時期である。信じたくない情報が伝わってきた。

「甲斐バンド解散」  

-消える、落ちる、流れる- そういうトーンダウンした展開は嫌なんで、-真夏の夜の打ち上げ花火のように、バァーッと夜空で燃焼したい-

前日の夜、マスコミ向けに開催されたニューアルバム「REPEAT&FADE」の発売記念パーティで、甲斐よしひろは甲斐バンドの解散を発表していた。
-スウィングしなけりゃ意味がない-
そんな想いで最後のツアータイトルは、
「ファイナルコンサートツアー "PARTY”」
に決まった。3月から6月にかけて全国ツアー、ファイナルは6月23日から27日の「日本武道館 5days」。29日には黒沢フィルムスタジオで、1500名限定のシークレットギグが行われ、それですべてが終わることになった。

普段なら、何を差し置いてもチケットを押さえにかかるはずだ。しかしこのとき僕は、大学に合格することができず、三年目の浪人を控えて身動きができない状況だった。どこに住むか、東京に留まるのか、水戸に戻るのか、それも決まっていなかった。

各地からは「ソールドアウト」の声が聞こえてくるようになった。それをただただ、漫然と見ているしかなかったのである。

6月になった。結局、東京に留まり、再び代々木に通いながら浪人生活を続けることになった。三浪生活はもっとつらいかと思っていたがそれほどでもなかった。代々木には自分と同じような境遇の人がかなりいたし、二浪生にいたっては石を投げれば当たるだろうと思えるほどたくさんいた。勉強も同じことを何度もやっているわけだから全然できないということはなくなっていた。第一志望はともかく、大学と名の付くところには潜り込めるだろう、と思えるくらいにはなっていた。

こうして少し気持ちに余裕が出てくると、
「やっぱり、甲斐バンドの最後を見届けたい」
という想いがむくむくと湧いてきた。

時間はたいして問題ではなかった。一晩くらいライブに行ったからといって勉強に支障が出るわけではない。問題は金である。最低限の仕送りしかもらっていない。バイトをする余裕はさすがになかった。やっぱりあきらめるしかないのか、そう思っていてた。

しかし、6月26日の夜、僕は九段下の駅を降り、武道館に向かう坂を歩いていた。中学の同級生と二人で行くことにしたのだ。金は彼から借りた。そしてダフ屋からチケットを手に入れた。

今夜も盛大にやります! 最後まで楽しんでいってください。

そう言って始まった1曲目は「ナイト・ウェイブ」。その後のステージは、いつもと変わらないように感じられた。これで最後だというウエットな演出は何もなかった。解散コンサートだと知らなければ気が付ないのではないかと思えるほどだった。

ステージには満足していた。ニューヨークミックス三部作からの曲を中心にしながら、バンドの12年間の歴史を俯瞰できるような選曲だった。パフォーマンスも申し分なかった。

ただ、MCがまったくなかった。解散について一言も触れなかった。

一緒にいた友人も同じことを考えていたらしい。よく考えたら本当のファイナルは明日ではないか。明日も来よう。そう話がまとまるまでにそう時間はかからなかった。


6月27日、ダフ屋の相場は前日の倍になっていた。それでも躊躇なくチケットを手に入れた。(この時の借金は結局、大学に入学してから返すことになる)

前日と同じように、「ナイト・ウェイブ」で始まった。
「HERO ヒーローになるときそれは今」「感触(タッチ)」「裏切りの街角」、当時すでに懐かしいと思えたヒット曲が続く。
「かりそめのスウィング」は4ビートのダンスミックスだ。
-スウィングしなけりゃ意味がない-
その想いを体現するようなアレンジだった。

「氷のくちびる~ポップコーンをほおばって~冷血(コールド・ブラッド)~翼あるもの~漂泊者(アウトロー)」。当時のエンディングに向かうお約束の流れだ。
アンコールの1曲目は「テレフォン・ノイローゼ」。甲斐が生ギター1本で歌い上げた。続いて「ダイナマイトが150屯」。
そして「安奈だ」。当時、スローテンポな曲である安奈の前にMCを入れることが多かった。何か言うとしたらここだろう。でも何も言わない。
「安奈をやります。シーッ……OK」
もうすぐ本当にエンディングだ。
ラストシングルの「レイニー・ドライブ」から「ラブ・マイナス・ゼロ」へ。前日と全く同じ展開だ。

♪月あかり高なる時間は終わり 憎しみの愛 はげしい炎が ♪

ラストコーラスで、客席にもライトが当たり、ステージが真っ白に見えた。歌詞が終わりバンドの音量が少し落ちた。

サンキュー じゃあね

解散を感じさせたのは、この一言だけだった。そしてそれは前日と同じ、いや、ツアーの間、すべて同じだった。

曲が終わるとテープで「破れたハートを売り物に」が流れ始めた。帰ろうとしない観客の歌声が一つになった。

♪ 破れたハートを売り物にして 愛にうえながら 一人さまよってる 破れたハートを売り物にし てうかれた街角で さまよいうたってる ♪

サビのリフレインが続いてた。スタッフがステージに立ち、「このままの状態が続きますと甲斐バンド12年の歴史に傷がつきます」と言った。それをきっかけに、歌声は万歳三唱に変わり、三三七拍子で、みんなが会場を後にした。

「らしいな」と友達と話した。いま振り返るとよくわかる。解散についてうだうだ説明するより、ステージを観てくれ。ステージはステージのパフォーマンスだけで評価をしてくれ。どうしても説明が必要なら、ラジオの「サウンドストリート」で話す。80年代の甲斐バンドのやり口はそうだったのだ。
武道館を出て坂を下ると、「黒沢フィルムスタジオのチケット 20万円で譲ります」と看板が立っていた。そんな金はもちろんない。ここで僕の甲斐バンド体験は終わった……

再び甲斐バンドにめぐりあうとは思っていなかった。22年後、2009年2月7日、武道館で甲斐バンドと再会した。それから、新宿厚生年金会館、薬師寺、NHKホール、東京ドームシティホール、日比谷野音、いまも甲斐バンドを聴き続けている。

今日は2016年6月27日、あれから30年の月日が流れた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?