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教会の聖書通読、ローマの信徒への手紙6章から導かれた御言葉(あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。)

教会の聖書通読、ローマの信徒への手紙6章から導かれた御言葉は

「決してそうではない。
罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
それともあなたがたは知らないのですか。
キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたよ うに、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。
かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義 のための道具として神に献げなさい。
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。
あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」

(ローマ6:2~14)

「知らないのですか。
あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。
つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神 に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
しかし、神に感謝します。
あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」

(ローマ6:16~18)

「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。
あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。
それらの行き着くところは、死にほかならない。
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。
行き着くところは、永遠の命です。
罪が支払う報酬は死です。
しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

(ローマ6:20~23)

私は10年程前、初めて行った教会で、初めて行った、その日に私の中にすでにイエス様がいるからと次回、洗礼を受けましょうと言われ、えっ?もう、いいの?とよくわからないままに洗礼を受けました。
それは使徒言行録8章36節に
「 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。
宦官は言った。
「ここに水があります。
洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」
と書いてあるからと、当時の牧師さんがおしゃたからなのですが、でも、今こうして聖書通読をして、この宦官はフィリポに聖書の手引きをしてもらった後なんですよね。
でも、私には手引きはなかったので、ローマの信徒への手紙にパウロが書いた“洗礼を受けることで罪な古い自分が死に、イエス様の復活とともに罪を捨てた新しい自分に生まれ変わる。
罪から解放され、義に仕えるように”
ということが良くわからないまま、罪を繰り返してしまいました。
でも、今の教会で2回目の洗礼を受け直したときは、自分の罪深さを痛感しており、魂からの罪からの解放を求めて洗礼を受けました。
パウロが20、21節に書いている
「罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
では、そのころ、どんな実りがありましたか。
あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。」
とおり、今では恥ずかし過ぎて、とても詳しくは語れません(苦笑)。

21節に「罪が支払う報酬は死です。」と書いてありますが、これは事実です。
私は罪深い生活をしていた時、5年前に脳梗塞で倒れ、死んでいてもおかしくなかったのに神様は憐れみ助けてくださいました。
でも、この時は肉の罪からは解放されたのですが、精神的な罪は残っており、2年前に精神的な罪も神様によって徹底的に砕かれました。
そして、今の教会に導かれ、洗礼前に今日の聖書箇所のことも学び、悔い改め、洗礼を受けて罪から解放されたことを実感しています。
それは罪が周りからなくなったとかもなく、罪の誘惑に揺れ動くことは今でもありますが、箴言28章13節に
「罪を隠している者は栄えない。
告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」

とあるように隠さずに相談するようにしたら、後ろめたい気持ちに縛れることもなく、気持ちが軽く明るくなりました。
でも、まだ「神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいる」というまでには自信がないので、神の奴隷となり、聖なる生活の実を結べるように、聖霊様によって導き守ってください。

導かれた御言葉から聞きたい賛美は
「罪 咎を赦され」

みなさまの1日が守らますように🍀


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