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9月4日、礼拝メッセージ、ルカによる福音書 17章 11節~19節、宣教タイトル「感謝の心」

9月4日、礼拝メッセージはルカによる福音書 17章 11節~19節、宣教タイトルは「感謝の心」でした。

牧師先生がおられなくなり、次の牧師先生を迎えるまでの間、“無牧師期間”となった私が通う教会。
どうなるかと少し不安でしたが、礼拝に来られた人数はほぼ変わらず、“無牧師期間”だからか神様への祈り、護りを必要とされてる方が多いからか、みなさんで口に出して毎週、祈っている「主の祈り」が、いつに増して力強く感じました。

また、私が通う教会は70年以上の歴史があり、“無牧師期間”を迎えるのも3回目。
教会員の方も落ち着いてらっしゃる方が多く、新米の私に対して「大丈夫よ、私たちがいるから、何があったら、いつでも言って一緒に祈りましょう」と仰っていただき心強かったです。

この日の礼拝メッセージは関西学院大学から、嶺重淑先生が来てくださり、ルカによる福音書 17章 11節~19節から「感謝の心」というタイトルで宣教してくださいました。
この聖書箇所を要約すると、イエス様がエルサレムへとの旅の途上、ある村で十人の皮膚病患者たちが「私たちを憐れんでください」と嘆願しました。
彼らに対し、イエス様は彼らに祭司のところに行って体を見せるように指示。
彼らは言われた通りに祭司のもとに向かうその途上において全員が癒されました。
そして、彼らの内の一人のサマリア人だけは癒されたことを知って神を賛美し、感謝するためにイエス様のところに引き返してきました。
イエス様は他の9人はどうした?と言い、また、このサマリア人に「あなたの信仰があなたを救った」と言って、真の救いが与えられたことを伝えました。

私たちの生活の中には、当たり前の事も含めて「感謝」すべき恵みがたくさんあります。
でも、大きすぎる恵みが与えられたときは、そのことの喜びが大きすぎて、その恵みがどこから来たのか忘れてしまいがちです。
他の9人もそうだったのでしょう。
また、不満や不安が大きいときも、日々の生活の中に当たり前にあるもの、例えば衣食住などには「感謝」を忘れがちです。
でも、この当たり前のものに「感謝」できる人と、忘れがちな人では、与えられる恵みというよりは、気付く恵みが違い“幸福度”が違ってくるのだと思います。
神様は全ての人間、全ての生き物を愛し、日光も雨も時間も神様がお造りになられたものは平等に与えてくださっています。
しかし、お金だとか、財産など人が作り出したものは平等に与えられてるわけではないのが現実なので、不満や不安を感じやすいです。
「感謝の心」や“幸福度”というのは、その人の感じ方によるので、聖書にも「いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。 
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

(テサロニケの信徒への手紙一‬ ‭5:16-18‬‬)とあるように、日々の“幸福度”を高めるために、この御言葉を実践していけるように、聖霊様によって導き守ってください。

メッセージの最後に嶺重先生がおっしゃっておられた、1日の終わりに、その日感謝したことを3つ書く「感謝日記」は春くらいからしていて、書き続けていくうちに3つ以上、今では10個くらいは書けるようになりました。
すると、不満だとか、不安はほとんど抱かなくなり、ストレスもほとんど感じなくなりました。
的外れな生き方や隠し事をしていた頃は、感謝より不安が大きすぎて、ストレスに押しつぶされそうになっていた2年ほど前が嘘のようです。
これからも朝の聖書通読と夜の感謝日記は続けていきたいと思います。


今回は新生讃美歌ではなく、礼拝メッセージ前に聖歌隊として賛美した長沢崇史さんの
「感謝の心」をご紹介。

みなさまの1週間が守られますように🍀

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