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8月28日の礼拝メッセージ「神の国はあなたがたの間にあるのだ」

8月28日の礼拝メッセージはルカによる福音書 17章20~21節、宣教タイトル「神の国はあなたがたの間にあるのだ」でした。

今日は牧師先生の最後のメッセージでした。
1年前に初めて教会に行き、1週間もしないうちに家族に大事件が起きて、祈っていただいたり、洗礼を受けたいという私の希望を快く承諾してくださり、私らしく生きていっていいんだという言葉をくださったり、1年という短い期間でしたが、先生がいてくださったから私は安心して、私らしさを取り戻していくことができました。

また、私に希望を与え、支えていたのは今日のメッセージの聖書箇所であり、教会の「教会総意」に記されている聖句
「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

に始まる、教会のテーマ「違いの中にキリストを告白する群れ~響き合う礼拝とひろば」でした。

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世間には「終わりの時にはこんなことが起きる。
あんなことが起きる。
だから身を清めて生活しなさい。」
根も葉もないけれど不安をあおるわかりやすい言説が人々を心を支配し、生き方を縛っていくということがある。
でもやはりそのように語られる「天国」というものは決まりきって、「律法などの教えを守ることができる正しい人」しか救われないと言うものだと思う。
それは果たして福音、すべての人の喜びの出来事、自由に導く神の真理なのでしょうか。
それはむしろ律法学者やファリサイ人が生きていた世界観そのものなのではないでしょうか。
私はそれはイエスさまが語っていたこととは違うと思うと牧師先生。

それではイエス・キリストが語る「神の国」とはどんな所なのか。
イエス・キリストは福音宣教の初めに「悔い改めよ。
神の国は近づいた。」と語り、
そしていまや「神の国はあなたがたのただ中にあるのだ」と言います。
神の国は何故近づいたのか。
果たして神の国が近づいたのは、人々が悔い改めた結果なのか。
完全に悔い改めることができないのが人間というものでしょう。
むしろできないからこそイエスさまが私たちには必要なのです。
ですから神の国が近づいたというのは、罪ある世界にイエス・キリストが来られることによって一方的に近づいてきた。
むしろ悔い改めることすらできない私たちの元に神の愛によって神の国の福音が届けられた。
これによって、私たちは初めて立ち返り、方向転換できるようになる。
神の国とは他のところにあるというのでもなく、「完成」された形なのでもない。
私たちの歩みのただ中、つまり「交わり」や「プロセス」にあるのではないかと思うと牧師先生。

私も同じに思います。
そうでないと私のような的外れな生き方をしてきた罪深い人間には天の国は敷居が高すぎて、とても入れません。
でも、天の国が未完成なもので、私の歩みのただ中、「交わり」や「プロセス」にあるのであれば、天国に近づいていくことは出来ますし、「交わり」や「プロセス」の中で神さまや天国について考え学んでいけます。
これは本当に希望であります。
そのことを教えてくださった牧師先生や教会員の方々たちには本当に感謝です。
これからも、この希望を胸に「交わり」や「プロセス」の中で神さまや天国について考え学び続けたいと思います。

牧師先生、本当にありがとうございました。
感謝の気持ちを込めて先生ご家族のイラストを描いて今日、お渡しすることが出来ました。


礼拝で歌った新生讃美歌は
「神とともにいまして」

みなさまの1週間が守られますように🍀








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