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満たされない心について

自分について考える。好きなもの、好きなこと、嫌いな人、嫌いな場所……。自分を構成する要素について考えても、自分というまとまりを捉えることができない。自分という人間を理解することができない。

思い返すと、心理学を始めたきっかけは「自分を知りたいから」だった。自分の心について、その時は精神状態が酷いものだったのでその原因について、そして自分がこんな人間になってしまった理由について、知りたいからと心理学を始めた。
心理学はヒントにはなってくれるが、答えをくれることは今のところない。わたしの悩みは心理学的なものでなく実存的な、哲学に近いものなのかもとも思う。

いつだってたどり着くのは心の中にある愛情のコップの存在についてだ。わたしはこれが満たされないことに悩み続け、"一時的な誤魔化しをやり続ける"という打開策を見つけた。愛情のコップは一時的になら満たされる。それを繰り返し続けようという答えを出した。

それでも、やっぱりそう上手くいくものではなかった。人との関係をやっていく上で、自分の心に溜まっていくものがないというのは致命的だった。愛されたこと、愛してもらったこと、それらは一時わたしを満たして、すぐに消えてしまう。そして満たされた時の気持ちが忘れられず、わたしはそれをまた求めてしまう。その繰り返しで一人の人を辟易させ、結果関係が終わったことが未だに忘れられない。

些細なことで不安になる。誰かと築き上げた関係性そのものを信頼することができない。わたしたちには一緒に過ごしてきた時間がある、ということを信頼できない。いつも見捨てられる不安を抱えている。失望される恐怖を抱えている。

いっそ孤独に生きていくと誓った。孤独に生きていける人間になると誓った。でも、誰かが愛情で心を一瞬でも満たしてくれた瞬間に、「もしかして、この人なら」と、自分勝手な希望を抱く。わたしは何度その失敗を繰り返したか、全て覚えているのに、また期待する。いっそもう希望が持てないほどに、めちゃくちゃに絶望できた方が開き直れるのかもしれない。

わたしは知っている、わかっている。誰だって、どんな人だって、いつかは居なくなる。いつかはわたしの元を去っていく。もしくはわたしが逃げ出してしまう。関係性はいつか終わる。人間関係は永遠ではない。続けていく努力もできないわたしは、だからいつも孤独なのに、失う恐怖に負けて今日も一言が送れない。たった一言で、たった一瞬で、全てが失われることが怖くて、ただ自分勝手に一人で祈り続けて、その相手ではなく神に縋る。だからダメなのだとわかっているのに。

一種のトラウマなのかもしれない。失われる瞬間の痛みがいつまでも忘れられず、その痛みを回避することだけに必死になっている。関係を続けるための努力ではなく、失った瞬間の痛みを軽くするための努力をしてしまう。

わかっているのだ。自分を本当に満たせるのは自分しかいないこと、自分を本当に癒せるのは自分しかいないこと。それでも偽物の満たされた感覚を求めて、まるで試すかのような行動をしてしまう。自分のために自分が何をすれば良いのかがわからない。一人で生きていくしか痛みを感じない方法はない気がする。わたしはもう苦しみたくない、痛い思いをしたくない、ただそれだけなのに。

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