地獄を見て、それでも、生き続ける。
この世の苦しみというのは比べられるものではないけれど、わたしが見てきた地獄も相当なものだったと思う。精神疾患が見せる地獄は生易しいものではない。死んだ方がマシだとすら思う、長い長い苦しみ。
とあるきっかけで飛び降りた時、ふと、希死念慮がなくなった。なぜだかわからないけれど、人生の選択肢から「死ぬ」というものが消えた。おそらく、死ねないことがわかったからだと思う。人の体は思っているより頑丈で、そう簡単に命を失えないことがわかったからだと思う。別に、家族の愛を感じたなんてキラキラしたエピソードではない。今まで助けてくれなかった憎しみすらあるのに、今更泣かれても困ってしまうくらいだ。
それから、死んだ方がマシだと思うくらいの苦しみも消えた。当時の恋人と別れたのが大きいのかもしれない。とても穏やかとは言えないが、自傷も、ODも、自殺未遂もしない日々を送っている。
それでもふと、思う時がある。「なんのために生きている?」
わたしは何のために生きている?満たされない虚しさを抱えながら、誰とも愛し合えない寂しさを抱えながら、何も成し遂げられないとわかっていながら。誰も救えないと理解していながら。何のために生きている?
わたしは積極的に生きているわけではなくて、消極的に死なないだけだ。もし安楽死が日本でできるようになったら、ニュースを逐一チェックすると思う。いつでも死ねるように。今だって、英語を話したいと思う目的のひとつに「安楽死ができるようになるため」がある。
わたしはわかっているのだ。もし次、あの苦しみがきたら、今度こそ乗り越えられないかもしれないことを。次に地獄を見たら、今度こそ死ぬ高さから飛び降りるかもしれないことを。
この世に地獄は存在する。わたしはそれを知っている。そして今現在も、その地獄の中に誰かがいる。
わたしは運良く抜け出したに過ぎない。わたしだって、まだそこに居たかもしれない。
そして、わたしはまだ完全に抜け出したわけではない。地獄の中の休息地にいるにすぎない。
一歩間違えたら、戻ってしまうのだ。死んだ方がマシだと思う苦しみの中に、また引きずり込まれてしまうのだ。
わたしは、今地獄の中にいる人に、生き続けろとは言えない。そこは、本当に苦しい場所だから。入ったことのない人にはわからないだろうけれど、常にギリギリ死ねないくらいに首を絞められるような場所だから。
でもわたしは、生き続けたいのだ。地獄から抜け出した人として。そこから助かったサンプルとして。わたしには生き続ける義務がある。希望を見せる義務がある。
苦しんでいた時、何よりも欲しいのは、「抜け出した人がいる」という希望だった。わたしと同じくらいの地獄を見た上で、生き続けて、幸せになった人というサンプルだった。だってそれを見られたら、わたしもそうなれるかもしれないと思えるじゃないか。
だから、生き続けたい。生き続ける。そうして言い続ける。「抜け出せる」と。「それは永遠の苦しみじゃない」と。伝え続ける。
わたしは幸せにならなければいけない。そうしてサンプルにならなければいけない。君が希望を持てるような。だから、地獄を見たけれど、それでも、生き続けます。
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