3/23 寄りかかれるものが欲しい

今日は家族について書きます。一部過激なワードは変えてます。ちなみに俺自身の青磁的な立場を表明するような文章ではない。

俺が持っている話題デッキの切り札は間違いなく両親のことについて。

片方はサヨクかつインボウ論者、もう片方はシュウキョウ(実際にはシュウキョウもどきの方が正しいかも)信者。

ということで両親ともに過激な主義・思想を持っていたが、幸いなことに中高の友人が皆まともな人間だったので俺は社会に対して中道的な考え方(実際には極端な物事への耐性)を手に入れた。

インボウ論者の父はいつも「自分たちよりも強大な存在(政治家、国家などの権力)が世界をいいように操っている」というようなことを語り、さも「自分(たち)だけが世界の理解者」であるかのように振る舞い体制を非難する。

テレビに🆎が映るたびに「クソが!気分が悪くなる!」と言って突然怒り出してチャンネルを変える様は実に滑稽だった。(別に俺が某政党を支持しているわけではない)

家族で某県に旅行に行った時は父の思想が遺憾なく発揮され、せっかくの時間を帆船教育に消費した。教養としてそのような歴史を学ぶこと自体には意味があると思うが、年末年始の家族旅行で少しは楽しく行きたいところを堅苦しいものに費やす家庭は恐らく珍しいだろう。ハッキリ言って子供の俺には苦痛だった。

一方シュウキョウ信者は教祖様()の説教をもとに「宇宙にいる高次元の存在が道を示してくれる」とかなんとか言って、自分たちの理解を超えた存在によって物事を説明しようとしている。それらの言説は実際には科学的根拠に乏しいもので実にくだらない。常音格勇剛。

母上のシュウキョウエピソードの一つにマッチ棒消失お祈り事件がある。

当時4歳?の弟がマッチ棒を鼻に突っ込んで取れなくなってしまった事件である。親父がピンセットで取り出そうとしたがどうやら奥深くに入ったようだった。
すると母上はシュウキョウで配られたシール(青をバックにサーモンピンクで塗られた六芒星のような模様が描かれたもの)を弟に押し当てて良くなりますようにとか祈り始めた。

それが起きたのは夜だったので翌日の昼に耳鼻科を受診したが、その頃には鼻腔内にはマッチ棒はもうなかったらしい。すると母上は得意げに自分の祈りの成果だと俺に言ってきた。どう考えても鼻に入ってしまった米粒のように勝手に喉に落ちて飲み込んだだけなのに。「冗談にしては奇天烈なことを言いよるわ」と子供ながらに思った。

ゾゾゾ(NTRSN)


俺は異なるヤバい人たちから血を分けてもらったわけだが、おかげでこういうものを一歩引いて見ることができるようになれた。彼らが信じているものは実にくだらないもの、幻想そのものであると思う。

しかし、そんな両親が羨ましいと思うことがある。真実か否か、科学的に正しいか否かに関わらずそういったものを信じて寄りかかれることである。

かつての我が国は国という存在(或いはテンノウ)を拠り所にアイデンティティを確立出来た。別にその体制そのものを支持しているわけではなく、強大な国家の民族として自分の存在を誇りに思えるような、自分の存在を肯定できるような風潮があったこと自体がとても羨ましく感じる。自分より大きな存在を信じられた時代。

UYKの人々がよく戦後の教育を「自虐史観的」だといって批判するが、一部は確かにそうだと思う。そういう教育を受けた現代人で国を誇りに生きている人は本当に珍しいのではないか?

今は多様性だとか個人主義だとかで、国のためではなく自分のために生きることが推奨されている。生きづらいような生きやすいような

昨日もブログに書いた通り俺は自己を肯定するのが苦手で、そう言った自分のために生きようみたいなのはかなり厳しい。絶対の信頼がおける強大な存在の保護・庇護のもとに所属していることで安心を得たい。何かに頼って自分の理解を超える物事を受け入れたい。

父のように気に入らない出来事を全部国家や他人のせいにして生きたいし、それらへの怒りを行動原理に生きるのは疲れるかもしれないが一つの信念を持てていることには感心する。
母のように非科学的な論理で世界を都合のいいように解釈したい。お祈りとやらで世界が変わると本気で信じてみたい。すべては確率的な振舞いでしかないのに。

両親のことは嫌いではないが、やはり俺が理解できない存在として畏怖している。

とにかくでけえ存在に守られてえ・・・
あるいは自分をでけえ存在にまで昇華してえ・・・

らりるれろでも作るか。

でも結局今俺が当たり前だと信じているものも実際はどこかで破綻しているんじゃないかと思うともっと怖くなる。大した学識もないからそれが何であるかまでは分からないけど、きっとそういうものがあると思う。
知識や行動まで管理される方が楽なんじゃないか、まさにユートピア/ディストピア。そういった共同体が大抵うまくいかないことは歴史を見れば明らか。

愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶってすごい人が言ってた。

ディストピア/ユートピアなんかになんとなく考えが及ぶようになってきたのは、文系の講義で読んだオルダス・ハクスリーの「すばらしき新世界」の影響があるかもしれない。小説として非常に面白いので是非ね

何を信じるかは結局その社会や時代次第ってことですね。
20世紀以前は共有された信念(イデオロギーとか)が生きている間で何度も変化するみたいなことは考えられなかっただろうけど、インターネットがある現代では簡単に認知の仕方を塗り替えられそうで怖い。認知の変化を強制されることはなかなかに苦しい。一度信じたものが崩壊するのはキツイ。

安定して信頼できるものってなんすかぁ?ぼくもう頭を働かせたくない

まとめ。両親のように都合のいい情報だけを取り入れる人間にはなりたくはないと思いつつ、両親のように生きていくうえで縋れる信念が何か一つでも多く欲しいというお話でした。
ただしナショナリズム、陰謀そして宇宙の真理とやらだけは勘弁してくれ。

生ける伝説、Phantom Excaliverが俺たちの行先を示している。

https://www.youtube.com/watch?v=lySyMsb21P0

ンァー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?