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チェンマイ一人歩き

1997年11月27日 まだ若かったなあ(64歳)

 母はほぼ2年間手助けの必要な生活だった。前半は自宅から車椅子で通院、後半は入院だったが、入院中もほぼ毎日病院へ行って、少しでもたくさん食べるように昼食の介助をする毎日であった。幸い横浜に住む弟夫婦が全面的に協力してくれたので、まとめて一週間自由に過ごせることが何度かあった。そんなある時、無性に海外へ行きたくなったのである。ツアーではおいそれと自分の都合に合わせられない。これは思い切って一人で行くしかない、会話が駄目だからあちらこちらへ移動しなくてもよい旅、治安のよい所等と色々考えた末、タイの古都チェンマイへ旅行することにした。アジアを得意とする小さな旅行社に手配してもらって、1997年11月27日タイ航空で関空を出発した。
 母は老人の鬱状態であったので、弟夫婦が母には内密にしてくれた。おかげでストレスをすっかり発散して来ることが出来、ほんとうに有り難かった。
 バンコクには明るい内に到着したが、国内線へ移動するためのバスがわからない。違った所へ行ったら困るので、ままよと、ほとんど人通りの無い連絡通路を歩いて無事チェンマイ行きの便に乗れた。
チェンマイの空港にはガイドさんが迎えに来てくれていてチェンマイ・プラザホテルにチェックインする。ガイドさんは日本語の話せる人柄のよさそうな男性である。

28日  運転手付きの大きなワゴン車で城外のあちこちを観光する。申し訳ないような贅沢な事だが、たしかガイド費用は1万円もしなかったと思う。

オーキッドファーム(蘭農園)

まず案内されたオーキッドファーム
蘭が空中で育っている

密林を象に乗ってトレッキングするエレファントキャンプへ案内される。
たぶん10頭ぐらいの象だったかな。1時間ほどのトレッキングをしたのがとても楽しかった。

不敵な面構えの御者で何となく不安。
トレッキングご一行、すぐ後ろの外国人は女性一人
御者が降りてしまった。

象使いが写真を写してやるからカメラを渡すようにとジェスチャーするので渡したら、結構いい写真をとってはくれたのだが1000円近いチップを要求された。今回、私は阪急電車のプリペイド・カードの景品の使い捨てカメラばかり5個も持って来たが、折角海外へ行くのだから普通のカメラを持って来ればよかったなと残念だった。沢山の象が行列して山道を歩く途中、前を行く象がものすごい糞をしてびっくりした。
ホテルまでガイドさんに送ってもらう。

夜ホテルから近いナイトバザールへ行く。屋台で食べるとお腹をこわすと聞いていたけれど、火が通されているものならよかろうと、タイ風のラーメンを頼んだ。待っている間に急にあたりに緊張が走る。白い背広に派手なネクタイのお兄さんがやってきたのだ。私達にはお水も持ってこないのに、店の人はガラスのコップに冷たそうな水を溢れる程入れて差し出し、何がしかの札束を渡していた。日本でいうショバ代を取りに来たチンピラだろう。ラーメンは少量だったが辛くて美味しかった。

29日は城内の街を夕方まで一人で歩き回ったが、前日ガイドさんが何度も何度も様々な注意を与えてくれた。曰く客引きをしている輪タクに乗るな、親しげに片言の日本語で話し掛けてくる人には気を付けよ等々。後で分かった事だが彼は元警察官だったのだ。いろんな事例を知っているから心配してくれたのだと思う。思いきり歩き回って、とあるホテルのレストランでタイカレーを食べた。まるで実沢山のスープのようなカレーだが美味しかった。

夕方ガイドさんにホテルまで迎えに来てもらってカントークディナーに行った。カントークディナーというのは、日本のちゃぶ台を小型にしたようなテーブルがひとりずつに出されて、民族舞踊を楽しみながらタイ風の食事をするものである

踊り子が近くへきてパチリ。
チップを出すべきだったとは後で気が付いた
絵葉書

一人旅の女性ばかり近くに案内されて、私はハワイから来た太ったアメリカ人と、イギリスの原子物理学者というスマートな美人の真ん中だった。一般的な考えではアメリカ人の方が陽気でお喋りと思われるのだが、この二人、全く正反対で、無口で何となく不機嫌なアメリカ人と気さくなイギリス人であった。精いっぱい取り留めない話をしたことである。アメリカ人の方は不味そうに食べ、原子物理学者は美味しそうに口に運んだのも面白かった。しかしアメリカ人とイギリス人が話し合っているのは全くちんぷんかんぷん。

ガイドさん

翌日また郊外のあちこちを案内してもらって楽しかった旅が終った。

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