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夢の中で歯が抜けた

夢の中で印象的だったものを解釈してみる。

夢1

この日は足に関する夢をみていた。
ある部屋で足の冷たい小鳥を抱く。
宗像忠雄という存在に電話をしている。(知り合いではないので誰なのか分からない。が、似たものを表していると考え、宗像というのを調べてみると、宗像三女神や宗像市は古代、中国や朝鮮との貿易が盛んだったというポイントが目についた。)
太陽系の木星に入る前、何かをつくるような作業が入る。若い(頃の?)牡牛のようなものと対面している。イタリアのような街の川を挟んだ酒場に出る。
なんだか清々しく楽しい。
PCから福岡(福岡に似た思考)に繋がる。
馬車みたいなものに沢山の女子高生のような存在たちが色んな角度にくっ付いて乗っている。(トカゲみたいに張り付いているように見える)
タロットの7「戦車」に沢山の方向でいろんな箇所にいるかのように見えていた。なんだか奇妙で印象深い。
真ん中の(馬がいるはずのところに)陰陽のように上下に逆向きでくっついていたり、その上に、或いは背後にいたり。
7のあらゆる方向に金星的な何かがくっついているような。

解釈:特に気になったのは宗像忠雄という存在と電話をしていた内容と、最後の方にみえたタロットカードの7「戦車」のカードの中に入って色んな方向に乗っかる何かがいたように見えていたもの。
前日まで古代の中国のような思考について気にしていたので、この宗像というのもそこに繋がる何かであると考えていた。
日本に例えた時、九州に関することを何度か見ていた。以前、(夢の中での)仕事で九州にきて何かを繋ごうとしている内容をみていたが、またそこに戻ったか、繋がりがあるかという気がした。何日か前は電話で予定を断ったが、新たな接続から他の大陸(思考)が見えたのかもしれない。
寝起き間際に7戦車に似たヴィジョンの中にいたが、ちょっと奇妙だった。
女子高生は金星的な性質と考えたが、馬車、馬、御者のあらゆるところに張り付いている。
金星的なものを受容の性質とした場合、またそれはミクロコスモスにも通じているのを考えた場合、思考、感情、身体の三分節のあらゆるところをくまなく覆っているものを見分け、視点を移動させ、対象化しようとしているのかもしれない。数が曖昧だが、正二十面体のようでもあると思った。ミクロコスモスの中のどの位置にどんな性質があるのか。イメージの中で、それがまだ人間的な例えだとしても、くっ付いたものの動きが明確に表れていた。


夢2

ある街に来たらしい。
はじめは洋服屋をまわっていた。
サビアンで当てはめてみるなら、牡牛座の12度に似ているだろうか。
予定があるらしく、待合室のような所で待っていたが、歯がぐらぐらしていて一つ抜けてしまう。なんだかこれが気持ちが良かった。(自分からみて)前歯を中心にした場合、左に二つ目あたりの歯が抜けた。
なるべく早く歯を診てもらおうと歯医者に電話をしようとしている。
私は荷物整理をして、別の街にきているからか、荷物が沢山あり、鞄は3か4つ持っていたようだ。
知らない卵型の(外国人のような風貌の)おじさん2人、双子の子ども2人に会う。
青地に白い鳥の旗みたいな、布みたいなものがみえる。
この日はいったん前の家に帰り、予定を済ませようと思い、(それから歯医者に行こうと思い)鞄から鍵を出す。
家に帰り、手を洗ったが洗面所のタオルは変種の虹のような色合いだった。

解釈:歯が抜けたのが気持ちが良く、気分が良かった。前日、(日常で何かあったわけではないが)実は感情がぐらぐらとすごく揺れていて、そんな中で通常の生活のモチベーションで暮らすというのは中々難しいと感じていた。日常も、他の世界も、強弱があるだけで、別のリズムで動いている。何か入り込んでくる時は揺れがあるので、分かっていても、音楽を聴いても、何か食べても、動いても、不安が解消できない、意識的に日常生活の儀式をしなければいけない時がある。
特に、感情がこの状態になった時普段の人格に合わせるのがちょっと苦しい時がある。
歯が抜けたことで、何だかすっきりと目覚める事ができた。
歯が抜けたことで満たされるというのがちょっと面白かった。私は歯はアカシックの層や自我との関連があるように思っていたけれど、歯が抜けたということはそれによって貫通した何かがあるのだと理解した。
数日前の古代の中国やデネブ意識に関係があるように思う。

まだちゃんと図を作ったりしていないが、デネブを牡羊座0度にした場合、アンドロメダ銀河は牡牛座のサビアンあたりに同調して来るのではないか、というのを考えていてこれをちゃんと(位相幾何学的に)やっていった場合、見える世界はやっぱりかなり変化していくように思った。
そしてどの意識も、銀河や太陽系の中では独立していて、ある意味平等で、比べられて優劣が出来るようなものは一つもないのだと感じた。
身体の不足を感情が補い、感情の不足を思考が補い、という循環で生きているが、日常生きていると私は不足だらけで、緊急事態である方が多く、いつも何かに(エーテルに)補われている。


(余談)
自然に感じられるものと、意識的に浮かんでくるものがあるけれど、実は身体の自分を切り離して生きるというのは難しいなと思っている。
感覚に任せていると、身体が満たされていたら余裕があるけれど、気持ちが満たされていたら許せるけれど、などというものが出てくる。
どんなに眠くても、蚊に刺されただけで痒いことを忘れることが出来ない。
怪我をしたら当たり前に痛い。
身体を持つ自分と、それを意識的に扱いたいという間にいる。
生活している自分も、意図から現れる自分もいる。
いまの文化期に生まれたのは、偶然だとは思えない。本当に降りてきた意図に従うのは、それだけでとても充実し、大変で、たのしく、困難だ。

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