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心が満たされること

数週間前にユクテスワの本を買ってちょこちょこ読んでいた。
一度読んでまた気になって一箇所読んだりする。薄い本なのですぐに読めた。
本は同じものを何度も読むのが好きだ。

冷静な言葉は色んな読み方が出来る。
人と話しているときの微妙なニュアンスが本を読むときはないから、感情や感覚に邪魔されない。文字が停止した短い文の上を感情は自由に移動できる。
答えは一つにならないし、文字の方が語りかけてくる。
意地悪な言い方とか難しい言い回しとか、そういうものに揺らいでいる間は本が読めないから時間がかかる。

宇宙を知りたいと思いながら、毎晩夢の中に入って行く。
最近は、心から満たされている状態を理解しているか、そういう事が大事なんじゃないかと思えてきた。それが最低条件のように思える。
この言葉は難しいのかもしれない。
今見える物質によって心が満たされる事ではないから。底なし沼を頭で想像したり理解しようとしてしまうかもしれない。

社会の視点では、心や感情が満たされる事はあまり重視されない。
働く時間が長すぎて、暮らすことに必死にならなきゃいけない。
小さな器に合うサイズの心を要求される。
子どもは段々、それがかっこいい事だと思うかもしれない。純粋な絵を下手だと感じ、見られる自分を美しくしようとしていく。
それは悪い事じゃない。
でも、気を取られ過ぎて心が満たされるのは一瞬かもしれないし、小さなカップを満たすことに人生を使い果たすかもしれない。
物質をあてにしないで心が満たされた状態は、一見、真逆の状態にあるように思えるけれど循環している。

心が満たされていると、それまでの自分では理解できなかったことが向こうから侵入してくる。それはすごく安心する。それまでの自分が溶けてしまう。
大きな自己の確信は、物質が減ればその比重が増えるというわけではないはず。
私がいつも不思議に思うのは、ヴィジョンの中に入り込むと真逆の物がやってくる事で、必ず何かの形になる。物質になる。
心と繋がっているからそれは特別なものになる。その意味を解釈できる回路が出来てくると、物の定義も変わってくる。
でも、勘違いしそうになるのが難しい。
見えているものがみんな同じサイズだとは限らない。
物の意味が変わってしまったら、それに対する私の視点も変わってしまうけど、層になっていて沢山の意味が出来ているので階段を移動するみたいに理解しなければならなくなる。
もちろん、蹴ると痛いこの物質の層も存在するけれど、これも色んな層があり、感覚は沢山の層に存在している。
心が安定していないと、きっと混乱する。

土台が違うと理解の仕方が全然違う世界になってくる。
意味が分からない夢やヴィジョンは、そもそも理解の仕方を根底から変えなくてはならなくなるので、物質肉体の私では無理な事。
心がそれ自体で満たされているには肉体の自分ではダメで、心の向こうからやってくる何かが必要なのに、心の果てに行って知らない形に成って戻って来るのは不思議だ。

そこで見えた世界は一体化した大きな自分の心の目から見ている。
知らないものであるのは当たり前で、でも何かと繋がっている安心感があるので受け入れられる。
一体化する悦びはいつも表現が出来ない。
それをまた感覚に降ろしていく。
自分を捨てて自分に成る、すごく変な表現だけど。

器が替わる(変わる)のは怖いというのはほんの一瞬の事のように思う。
でも必ずこの怖さを通ると思う。それが生命を守っているから無視できない。
手放すたびに信頼できるようになる。
信頼は個体ではなく心の深くに向けるのがいい。

この世界の鏡で見える私は作られた側にいるけれど、この世界の太陽を通って降りてきた時の姿の一つに過ぎない。
心の目の消える事のない私は小さな器に移動していただけで、いつでも色んな器と繋がっていると想えたらいい。

死んだ後も川の流れはずっと続くと思っている。
でも、ただ死んだらいいわけでもない。消える事のない自己との繋がりが強くなって、死ぬ直前も楽しいのがいい。

シュタイナーの本を読むと、アストラル体が肉体に悪い影響を与える事について書かれている内容が沢山あるけれど、それも事実の一つに過ぎないはずで、アストラル体の事実はもっと沢山あるはず。
でも、そういう事が書かれていないのはきっと頭のおかしな人だと思われるから。
一つの世界だけでは、現実が少な過ぎる。

ユクテスワの本を読んでいて、遊戯という言葉が気になった。
私は遊ぶことについての理解がまだまだ足りないかもしれない。
物質に依存しない遊びは感情や感覚を育てると思う。心を満たす。

大きな自己から降りてきた遊びをみんなしている。
器が変われば、感情も感覚も変わる。
見えてくる銀河も変わる。

などと、考えていた。

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