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楕円形の花の夢

最近はずっとろくぶんぎ座Bを意識しているけれど、曖昧な内容が続いていた。それでも何度か見ていくと、連続した内容が出てくるから夢は親切だなと思う。
曖昧な日が続くと集中力が増す。
何故ろくぶんぎ座α星ではなく、ろくぶんぎ座B(銀河)を意識しているのかは自分でもよくわからない。
この間、ミディアムランドでヴィジョンを見ようと集中したら、黒色とピンク色の球体が沢山飛び込んできた。大きさの違う真円の形がいくつもあった。黒は未知のもの、ピンクは生命の色だ。
その他にも、すりおろし器の沢山の丸のイメージなども出てきたので円が強調されているのだと思った。

他にも色々見たが、印象的だったのは花のようなイメージだった。
ミディアムランドの家の廊下に白い花瓶があったが、中心にだけ楕円の形の花があった。長球型というのだろうか。赤紫と青紫が混ざったような楕円の花の周りには、緑の葉っぱがあったが、どう繋がっているのかわからない葉の付き方をしていて、空中に浮いている葉もあった。
その植物は中心以外は動いていて生きているように見えた。白い花瓶の部分はマルクトのように思う。
花の真下には黄緑の茎があり、繋がりが分かったが、可視化できるのは一部だけだった。これは血管のような、エーテル体の流れではないかと解釈した。楕円の花の部分はアストラル体のように思った。
空中に浮いて動いている葉っぱは惑星だろうか。まるでノーアスペクトの天体みたいだと思ったけど、アスペクトのない惑星というのはよく考えると変かもしれない。
通路が出来ていない状態なのに葉っぱだけ見えることは考えにくいから、茎の部分が透明で空気のような状態なのではないかと思う。見えないという事は、柔軟に変わる通路のはずだ。
葉っぱの形がはっきりしなかったけれど、裏が見えるような状態で、立体の三角形に近かった。道明寺でも包んでいるかのような。

植物が動く夢は割に多い。
この日の夢の内容で、以前、花の妖怪みたいな存在になった事を思い出した。この世界の、空気の流れが止まるような雰囲気はいつも気になる。その時は、タンポポの綿毛みたいな頭の妖怪(妖精)の風貌になった。これもアストラル体のイメージ化だと考える。このタンポポの綿毛妖怪は、2、3年前にみたスピカの結晶体に繋がる存在だった。

古い馬車に沢山の呪文を書いて城に行こうとしていて、最後まで行けずに止まってしまった。イメージがファンタジー過ぎるけど、この雰囲気で見る内容は動く巨大な花とか、大体共通している。イメージより同じ匂いであることが重要かもしれない。
馬車は身体だし、よくわからない呪文を古い身体に書いて進もうとしていたが、何かが原因で最後まで行けずに止まっていた。
古い本とか綺麗なドレスとか呪文を書いた乗り物だけでは足りないものがあったのだと思う。乗り物が古過ぎて改造しなければならなかったのかもしれない。

前日に月の軌道で新しいスリッパを出す内容を見ていたので、何か来るのだろうと思っていたら、昨日のミディアムランドでどこかの惑星に降りたアンチマタ―に会った。このアンチマタ―はもう何度も出てきている。(デネブに関係していると思われる)私の右肩をはっきり包んでいる感触があり、重なってきた。右後ろ側という感じだろうか。
左側にも誰かが居たが、そっちは雰囲気が薄かった。
その薄い方の存在と一緒に公園に入ったが、二つ置いてあった飲み残しの片方のドリンクを飲み始めたので、私が持っていたペットボトルの水を渡そうとしていた。これは元からあった飲み残しに、新しい水を組み合わせるような事だろうか。
最近ぼんやりしていたものが段々と降りてきた気がしている。

後天的アストラル体について考え始めてから、周りのものがこれまでと違って見えるようになってきた。
普遍的形や構造を考えていくと、どんなものも原型があり、単独で考えらえることは何もないのだろうと思う。そういう事に意識を向けながら日常を送るのは難しいけれど、夢がリアルになると裏側でそれがやってくるのだという実感が強くなる。
夢の中で教えられる構造と、日常意識で考える構造は少し違うので、理解の仕方を変えていく必要があるように思った。どちらが正しいというより、世界が違うから受け取り方や見え方が違ってくる。
日常は日常で世界があり、裏側は裏側で進んでいる事を教えてくれる。
表があるなら裏も横も斜めもあり、全部更新していく必要があるのかなという気がしている。結晶体は半透明で光っているのに、形の違う沢山の正四面体のようなものがくっついていて、八面体にも見えるような、歪んだ複合多面体のような形で現れた。花の妖怪はそこを行き来しているアストラル体イメージのように思えたが、その都度改造されているように思った。

沢山のマルクトの原型もたぶんその中にある。
地上にあるものに違和感がなく思えるのは、同じ要素を持っているからだ。既存のH48をすでに持っている。
地面を支えるものやそこから新しく育つものに支えられ身体は出来ているから、大きな飛躍がなく、いま地上に生きているものはすべて繋がっていると言ってもいいくらいなのかもしれない。動物も虫や植物や人もデザインが違うだけで、みんなこの太陽系内の、太陽と惑星が織り成すバリエーションみたいなものなのだろうか。
ミクロなものまで様々考えていくと、相当な数があるし、惑星の作用も複合されてくるはずだけど、大まかにはみんな少しの違いがあり、コスモスの範囲によって調整されるので違和感のあるものは少ない。そもそも本当に違うものなら見る事が出来ないかもしれない。

三分節を考え始めると本当に太陽が1つなのかは疑わしい。
きっと比率の問題で現実だと認識できるものは変わる。知覚の抵抗度を調整すれば、沢山の太陽を通って出入りするはずだと思ったりする。
人が思考、感情、身体の三層で出来ている事からしても、すでに1つではないし、もし1つなら形も違うかもしれない。もっと細かく分類すれば、層は5つ、7つ、とグラデーションがある。
心臓は5つ以上重なっていて、微妙に位置やニュアンスが違うはずだ。でも、身体の心臓は1つしかないし、みんな同じような身体をしているからそれが当たり前に見えてくる。それ以外の心臓は、裏側の身体から見ないとわからない。裏側の身体は、集合的知覚の大きな身体だ。

こんな事を考え始めると、1の意味が揺らぐ。1という数字はいつ考えても言葉に詰まる。1はスタートの数字だが、スタート点の知覚はすでにわからない時にやってくる。そういう瞬間は、言葉は何の意味もないと思うくらい遅い。1だと分かる時にはもう分離しているはずなのに、その残像の1以外は霧の中だ。身体は反射板みたいに、形に成らないものを形として映し出す。主体に完全には成り切れないし、成り切った時にはもう理解できない。
これは融合と分離が大きな範囲から小さな範囲まで起こっているというような事なのだろうか。

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