見出し画像

劇場版少女☆歌劇スタァライト 感想

劇場版少女☆歌劇 レヴュースタァライト、ようやく観に行ってきました。

先に見たフォロワーが「大場ななさんに回し蹴りをされたいよ…」としかツイートできなくなっていたので何が起こるのかと終始緊張感たっぷりに見届けていましたが、その前評判(?)に応えるような情報の洪水、臨場感に溢れた舞台の連続で非常に面白かったです。

分かっちゃいたけど、大場ななさんの低音凄かったね…中盤は正に彼女の独壇場と言って差し支えなくて、劇中最強格の実力を遺憾なく発揮してくれていたと思います。以下、多くのネタバレがあるので注意。

レヴュースタァライトは放送当時に見たのが5話(まひる回)と7話(種明かし回)で、質量の濃い百合作品があるなぁと思いつつ、見るのは一旦遠慮させて貰った形でした。

その後再放送1話を見逃したりと縁がなく、今回、劇場版公開ということで満を持しての視聴。2020年以降アサルトリリィ、ラスバレを通してブシロード作品に触れる機会が増えていて、D4DJ/アサルトリリィ展でも劇場版のチラシを持って帰ったりしていたので、丁度機が熟したのかなと思います。

ただ…滑り出しの感触は良かったものの、前期の作品が面白かったこともあってかあまり手が伸びず、昨日9話から最終話まで見て飛び込みで劇場版を観に行くことに。

今日にしたのは川崎チネチッタさんがLIVE ZOUNDでの上映に「LAST」と表示していたからなのだけど、改めて確認したところ今後も放映継続するようです(4連休中は7/22のみLIVE ZOUNDなし)。音響は間違いなく良い方が楽しめる作品なので、良い箱で上映してくれるのは有難いですね。

テレビ版はひかりと華恋の物語にかなりの尺を割いたものの、「ひかりが運命の舞台に自分を取り残した理由」など、ひかりの心中に疑問が残る部分もありました。

華恋の主観にスポットを当てすぎたとも言えるかもしれません。今回、華恋はかなりの部分で物語の外側に追いやられていて、登場しても主体的な語りをさせてもらえない(舞台に立てない)シーンが多くあります。

その分を回想で補いつつ、ひかりの方から「愛城華恋駅」に飛び込むことで、ひかりはなぜ華恋に心中を語らないのか、一人で抱えこんでしまうのかを着実に明かしていってくれました。

その核心に迫るシーンがワイルドスクリーンバロック②『競演のレヴュー』なわけですが、まひるちゃん、マジこえぇ…と思わされる怪演で、ひかりの弱い部分を曝け出させる舞台として、最高に説得力があるレヴューになっていたと思います。

まひるちゃんにとってのひかりは華恋ちゃんを奪った泥棒猫であり、気の置けないルームメイトであり、同じ舞台に立つライバルでもあるんだろうな…

そのぶつかり合いたるレヴューにおいて、結局「気の置けないルームメイト」のひかりを助けてしまうのが彼女らしく、TV版で炸裂させた嫉妬の先にかけがえのない、大切なものを見つけたことが伺えるレヴューでした。

この部分はLIVE ZOUNDが猛威を振るっており、全方位からまひるちゃんに責め立てられるという恐怖(ご褒美)が味わえる音響になっていました。皆さんも是非体験してみてください。

ひかりと華恋の話に戻る前に他の3組の話を。TVシリーズで一番好きな組み合わせは双葉&香子でしたが、劇場版でもやはりトップバッターを務め、壮大な夫婦喧嘩を見せてくれました。

香子の長刀を活かした殺陣シーンはかなり映えるのでもう少し見たかった部分もありますが、二人の物語として避けられない離別を描く『怨みのレヴュー』は迫力満点の出来になっていたと思います。

実はこの二人、物語の中で一度も(本質的に)離れようとしたことがないんですよね。TVシリーズ6話での香子は双葉の気を引こうとしてお暇したわけですし、劇場版でも双葉は明確に「香子の一番近くにいるため」進学すると明かしています。

つまり、二人の道は別に逸れたわけではないのだけど、双葉にべったりの香子理屈が分かっていても納得できない。それを自分で分かっているから、香子は「ウチが一番しょーもない」と嘲けたのだと思います。

それはそれとして、双葉のことは嬢のカッコして上から責めるけどな!!!『分かっているから歩み寄る』なんて甘い考えはなくて、感情を叩きつけた上で納得するのが二人の進み方なのでしょう。

双葉も香子の激情に負けず、自分のワガママを通すためトラック4台(5台?)並べて突っ込むあたり、本当に目指したい道を見つけたことを感じられるレビューでした。

良くも悪くも二人の関係で完結している二人が、良い部分も悪い部分も抱きしめたまま決別を認め合うシーンは、決着として相応しいものだったのではないかな、と思います。

次にクロ真矢コンビ。こちらは真矢が舞台上に立ち続けていたこともあり、夫婦喧嘩というより11話から引き続きバカップルしていた雰囲気もあるのですが、ミステリアスな部分のある真矢がどう自分を捉えているのか明かされるシーンはいい意味で予測を裏切ってくれたと思います。

真矢にとっては常に他者から与えられる視線が役そのものであり、空の自分に期待された像を映し出し、演じられたことについて満足する…中々やべーなオイ!

まあ舞台少女のトップofトップたる彼女がまともなわけがないので、当然の摂理であると言えそうですが。その狂気的で、ある種自殺的でもある皮を引っぺがせるのがクロディーヌであり、二人の競争関係は永遠に続いていくのだろうと感じるレヴューでした。

さて、3組目は…『努力の星』星見純那と『稀代の天才』大場なな。何もかも正反対だからこそ惹かれ合った二人が、視点の違い故に決定的なすれ違いを起こした舞台。

『狩りのレヴュー』には、強者として弱者に対峙するななの不遜と、彼女が見落とした純那の執念、意志の強さが詰まっていました。

切腹を迫ること、狩りをすること、これらはいずれも上位存在が下位の存在に対して行う行為であり、ななにとっての純那は依然として保護対象であることが分かります。

実際に『皆殺しのレヴュー』における純那はななの作る舞台に対応出来ず、舞台少女として過ごした血肉湧き踊る日々を忘れ、自らの実力、それに付随した地位に甘んじる存在になりつつありました。

しかし、レヴューでの戦いによって力強さを取り戻した彼女は、自身の努力を不屈の力に変えて、勝利をもぎ取ります。

陰りの中で歯を食いしばる者と、光の中に身を潜ませる者では、あまりにも違いすぎる世界の見え方。天才には”まるでつまらない”ような努力の積み重ねこそが純那の原動力であり、それは実を結んでいないようでいて、彼女の中に刻み込まれていることの分かるレヴューでした。

転じて3回目の敗北を喫することになった大場なな。彼女は自分の力をよく知っているし、協調的に与えられた能力を発揮することも出来るるのだけど、土壇場になると自分一人の力で解決してしまおうとするんだよね…深いところで信用できていないというか。

根は寂しがりで変化に弱い子なんだけど、その発露の仕方がヤバすぎて周りを滅茶苦茶にしてしまうあたり、結構不器用なのかもしれない。

今回二人は「次の舞台で」会うことを約束しますが、ななちゃんの弱さを受け止められるのが現状純那ちゃん一人であることを考えると、「電話くらいは続けておいた方がいいぞ…」というのが正直なところです。(王立学院がとんでもないことになるよ!)

長い小休止を挟んで、ここからは『最後のセリフ』へ。華恋を主役に展開する(華恋を主役に押し戻す)このレヴューは、キリンからのメッセージである「電車は必ず次の駅へ。では、舞台は?あなたは?」と深い関連性を見せています。

華恋の乗る電車は迷いの中に脱線し、道を失ってしまう。ひかりへの憧憬、約束、共演こそが彼女の原動力であり、それを達成した華恋には進路すら見出せない。

別の列車で死闘(という名の虐殺)を繰り広げる7人はあくまでも「今の自分は舞台に立っているか、いないか」を争点に戦っていますが、華恋は「舞台が何処にあるのか」も分からなくなっていて、白紙を理由に(舞台上の)死を迎えます。

再生産に必要なものは、『ひかりとの約束の舞台=レヴュースタァライト』以外に情熱を向けること、そして確固たる舞台少女としての存在理由を持つこと。

ひかりは約束の東京タワーの上で「ここが舞台だ!愛城華恋!」と名乗りを上げ、今この瞬間こそが舞台の上であり、輝きはこの場所から放っていけることを伝えます。

ひかりが凛々しさを全面に出して叫ぶ口上は、眩しすぎる光に魅せられた(観客の地位に甘んじようとした華恋を引き上げる、激励の言葉にもなっています。

ひかりに対等な存在として認められたことで華恋は舞台に立つことの怖さを正しく認識し、その中でも舞台に立ちたいと思うほどの魅力を再発見することで、最後のセリフを読む決心をする。

彼女が再発見した魅力(舞台少女としての存在意義)は”ひかりへの憧憬”であり、それは元々彼女の中に宿っていた感情だったものの、約束の光に囚われて共(競)演者でもあるひかりの存在を見失ってしまった彼女が掴み直す感情として、相応しいものになっていたと思います。

更にひかりの短刀で腹部を刺された華恋から”ポジション・ゼロ”が大量にあふれ出し、東京タワーが突き刺さって終わり…

ここ、劇場で見ているとTのマークに画面が埋め尽くされる凄まじいシーンですが、空っぽだった華恋に、再び舞台に立つための精神が宿った(中身を手に入れた)こと、”ポジション・ゼロ”に約束の東京タワーが突き刺さっていることを考えると、「ひかりに負けたくない」と叫ぶ華恋が取り戻した舞台への情熱、その炎がひかりの存在と繋がっていることを指し示す、『レヴュー』の内容に違わない演出だったと思います。

ここまでワイルドスクリーンバロックで起きたレヴューについて触れてきましたが、最後に華恋が気付いた舞台の怖さ、即ち役者/観客という二層構造で舞台が成り立っていることの重要性について触れておきたいと思います。

『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』において、基本的に観客は舞台少女の煌めきを安全圏から味わい、しかもその代償を彼女たちに負わせる身勝手な存在でした。

舞台少女がトップスタァになる瞬間。奇跡ときらめきの融合が起こす化学反応、永遠の輝き、一瞬の燃焼、誰にも予測できない運命の舞台。私はそれが見たいのです。

このセリフが指し示しているのは、役者/観客の断絶、そして観客の持つ搾取性です。

下地にある努力を見ず、舞台上での煌めきだけを見る観客。その身勝手さを更に推し進めたのがキリンであり、倫理や道義を外れても、舞台でしか味わえない熱量を求めようとする姿勢が彼にはありました。

そう、あなたが彼女たちを見守り続けてきたように。私は途切れさせたくない、舞台を愛する観客にして…運命の舞台の主催者。舞台少女たち、永遠の一瞬!ほとばしる煌めき!私はそれが見たいのです!そう、あなたと一緒に。分かります。

しかし、観客の持つ露悪的な面のみを発していた彼は、99期生たちが卒業前に迸らせた想定外のレヴューを見て、自身の持つもう一つの役割に気付きます。それはオーディエンスの持つ当事者性であり、自身が彼女たちの力になれるという真実でもあります。

何故私が見ているだけなのか 分からない?わかります。
舞台とは、演じる者と観る者が揃って成り立つもの。
演者が立ち、観客が望む限り続くのです。

いみじくも自身が述べていた言葉を正しく認識したことによって、キリンは燃えるエネルギーとなり、最後の舞台を完成させる。彼が舞台と一体化する過程で『レヴュー』にも変化が起こり、華恋は自分を見る”外側”の存在を認識できるようになります。

ここにきて『レヴュー』は”幻想空間としての虚構”と『演劇』としての”現実”が入りまじり、より完成された『舞台』としての形を表します。

役者、裏方、そして観客。関わる全ての人が舞台の当事者であり、境界線は不可分にして一体化されています。それ故に、キリンは分断された”観客”から燃える『舞台装置』になることが出来た。

しかし、ひかりが華恋を激励したように目の前の相手と対話することも即ち舞台であり、且つ、真矢/ななが舞台少女として過ごす日々を終えても尚見失っていなかったように、一人一人の人生は常に次の舞台へ向けて進んでいきます。

人は常に自らの人生を生きる役者であり、たった一人で戦っていても、誰かと共に歩むとしても、舞台の上に立ち続けることができます。

faber est suae quisque fortunae. 人はそれぞれ、自分の運命の作者である 『ID‐0 II Vive hodie.――今日生きよ 』 菅 浩江&ID-0 Project 早川書房 293P

『最後のセリフ』には、明確な開催者(更に言えば、観客)が存在しません。また、ワイルドスクリーンバロックは全体として誰かの煌めきを犠牲にせず、それ自体で駆動している部分があります。

それは我々(キリンを含めた)オーディエンスが正しく『観客』として存在できるようになったからであり、彼女たちが再び情熱を燃やし持てる力を出し尽くしたことで、「今立つ、この瞬間こそが舞台だ」と、常に自身を主役として生きていくことが出来ると理解したからなのでしょう。

血がドバドバ出てたのはあの幻想空間自体が単体で世界を構築できるようになった(痛みを正しく認識できるようになった/敗者に不利を強いる代償がなくなった)ことの暗示なのかな…だとすると、『レヴュー』の舞台はこれからも続いていって、99期生の子たちや各地の役者も舞台少女として再び戦うことがあるのかもしれない。ここはもう、想像に任せるしかないですけどね。

自分は華恋たちはもう舞台少女になることはないものの、どこかで煌めきを求めた戦いが続いているという解釈が一番しっくりきます。だとすると、どのような形式で争われるのか。『オーディション』なのか、一対一の舞台なのか、そんな空想をしてみても面白いかもしれません。

もう一つ書き加えると、”卒業”を明確に見据えたこの映画が、結構不平等に各々の少女を送り出したこともいいな、と思いました。

まひるちゃんのように充実した思春期を過ごし、確固たる自信を持って新国立へ入団した者。ばななちゃんのように孤独と成長を見え隠れさせ、危うさを抱えたままフランスへ旅立った者。

9人はそれぞれの速度で道を進み、舞台少女として生きた時間を胸に生きていく。卒業することを理由に一様に悩みから解放されたり、未熟さを克服するのではなく、各自のレヴューで見つけた約束や課題を一つずつ形にしていっていることが分かるEDは誠実で、とても嬉しい最終報告でした。

あのシーンがあったおかげで、色々と空想も楽しくなるしな…めばちさんの絵で彩られる少女たちがとても可愛く、戦いを終えてなお、彼女たちが幸福に過ごしているとわかるエンドロールだったと思います。

さて、ここまで感想を書いてきましたが、そろそろ締めたいと思います。スタァライトに入りたての自分が、このコンテンツに深くかかわってきた人でも楽しめるような文章が書けているといいなと思いつつ、本文を書きました。

上述したように新参者ですが、劇場に足を運んだ多くの人と同じように、Twitterで「99代生徒会長星見純那!殺して見せろよ大場なな!」と検索したりしていると、すっかり魅了されたな、と感じます。

出番少なめだったけど、幼少期~12歳~中学生~現在と時を辿っていく華恋ちゃんも可愛かった。EDまで内容が詰まりに詰まった作品で、本当に前評判通りの出来でしたね。

また見たいな。もう一回くらい観に行くかもしれない。結構紆余曲折して劇場版に辿り着いたのですが、遅いタイミングだったとしても、この作品が好きになれて良かった。そう思える素晴らしい作品でした。ありがとう、レヴュースタァライト!

2周目  https://note.com/gyst_00/n/n8829dad53e16 

3周目 https://note.com/gyst_00/n/n291c4b691508 

サムネイル引用元:©Project Revue Starlight

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?