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むなしい日々を感じたとき、林芙美子「浮雲」のすすめ

なんだか今日は虚しい、日々の暮らしの目的を実感できず、なぜかもの悲しい気持ちになったりしたことはありませんか?

私は日々子育てをしていて、ふと「このままでいいのだろうか?」「何か老後にも生々できる楽しみを今から考えた方がいいのでは?」と考えることがあり、日々淡々として特に刺激のない毎日に焦りを感じることがあります。

人生に大きな目標や目的を掲げることは、日々の暮らしに張りや瑞々しさを与えてくれるものかもしれない。

特に特段の訳もなく、心が荒涼とした砂漠のように感じる日にそういった光が見つかるようなことがあれば、まるで乾き切った植木に水を与えたようなパワーが漲ったりする。

しかしそんな眩い光がすんなりと見つかるわけもなく・・・そして心がもの寂しい時に私がたまたま手に取った本は、ずっと本棚の奥に未読のまま押し込まれていた林芙美子の「浮雲」。

私が読んだ「浮雲」は1953年に新潮社から出版されたもので、もう70年近く前の小説になる。

第二次対戦下に南国で出会った農林省の富岡と、タイピストとしてベトナムに渡り出会ったゆき子2人の物語。豊かな大自然と仏蘭西的住環境で甘い時間を過ごしたが、敗戦後に戻った日本は南国とは対照的に焦土化していた。日々の暮らしも貧しくなり、所有物を売りながらやっと食いつないでいく。

富岡は家族もある身でありながら、ゆき子との繋がりを断ち切ることができず、2人は伊香保の宿に身を寄せるが、そこでも富岡は他の女と繋がりを持つ。

一方ゆき子の方も、元愛人の着物を勝手に売り捌いて日銭にしたり、外国人と出会い寂しい心を温めあう。なんともフワフワして日々を刹那的に過ごしているような2人は、見えない運命的な流れに身動きが取れなくなっている自分に気がついていないように感じる。

まさにタイトルの通り「浮雲」のようなのである。

この小説は私をさらに憂鬱な気分にさせるどころか、逆に心を平穏にしてくれた。人生そんなもんだよって。

人間は空にフワフワ漂う浮雲のようである。別に自分だけが日々虚しさや虚無感を感じて生きているわけではない。そもそも浮雲のような存在で運命に抗えないものだと思えば人生はそんなもんだと思える。

衣食住も戦後から比べ物にならないくらい満たされている現代だが、人の心に突然ぽっかりと現れる暗い洞窟や、不安などは時代を超えて普遍的なものではないのか。

私は日々の生活に疑問を感じたり、無理やりにでも乾いた心を潤いで満たしたくなったら、この「浮雲」の登場人物たちを思い出す。

次第に心が海の凪のような波風が立たない平穏な状態になっていくのだ。

一方、この小説を純粋に楽しむために読むことも強く推薦したい。

人間の心の中をこんなにも生々く表現できるものなのかと圧倒されてしまう。時には熱量や粘りを持って相手を求め、時には冷たい鉛のような心で見つめる男女の心理描写には作者に凄みを感じて敬服してしまう。

すごい作品、この一言に尽きます。

映画も制作されていて、高峰秀子さんがゆき子役を演じている。

小説を先に読んだこともあり、高嶺さんはあまりに可愛く綺麗に描かれているので、本の中で垣間見せるおどろおどろしさを持つゆき子とは違っていた。

富岡とゆき子の心の中小説のように表現されているわけではなく、お互いの表情や仕草から読み取るしかない。

そこは小説ならではの良さなのであろう。

さて、今日も浮雲のように生きようと挽きたてのコーヒーを入れる。









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