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才能の枯渇と移行のお話

第22話

夕食時、テレビで音楽番組を観ていた所「オフィシャル髭男dism」というバンドが出演していた。

自分の両親を見ていて思うのが、彼らが観たり口ずさんだりするのは、彼らの青春時代に輝いていた方々の楽曲である。それは自分たちが若かった頃の思い出と楽曲がリンクするからであり、それと単純に新たなことは受け入れ難い年齢に来ているからだと思う。
40歳になった私としても「青二才が何をぬかしおるか」というような、割合いうがった態度でオフィシャル髭男dismの演奏を流し観していたのだが、しかし曲が進行するに連れて次第に惚れ惚れとしていった。
なんとも抒情的でたおやかな、苦悩、懇篤、葛藤、優美、性への渇望。フランス料理のフルコースのごとく繰り出される歌詞とメロディの抑揚に、感情をこみ上げざるを得なくなった。これをもし高校生の頃に聴かされていたら、私の青春時代とは、このバンドの楽曲とシンクロするものになったに違いない。それくらい胸を打つものがあった。

ところで私の青春時代に輝いていたアーティストの中には、いま現在も活動している方々がいる。そりゃあそうだ。生きていく為にはお金を稼がなきゃいけないし、自分の才能は音楽でこそ輝くという自負があるからだ。

しかし才能というのは残酷なもので、いくら「自分はもっといいものを作れる」と思っていても「前作で描いた感情以上の熱量でその感情に執着がないと、前作以上のモノは作れない」のだ。

分かりやすく言うと、大体の場合、ポップスの源流は「恋愛」に起因するものである。
よって前作の頃に比べて今の性欲が減退していれば、実生活におけるセックスに対しても誠実さが欠ける。誠実さに欠けるということは、当然受け手の心にも響かない。
ポップスとはその爆発的な性的欲求が歌に体現されるものだからこそ、若い世代の心に響くのであり、減退してきたオッサンがいくら「全てを捨てて、キミだけを抱きしめたい」などと嘯いても「いやいや、仕事しろよ」となるのは当然だ。その点、サザンオールスターズが今でも光を保つのは、あの人がホントにエロいからなんだと思う。

浅田次郎氏の歴史小説(蒼穹の昴シリーズのどれか)の作中、支那の王宮に仕える芸術家カスチリョーネとイタリアの友人ティエポロとの手紙の中で「芸術的才能は、なにも歳を重ねれば重ねるほど優れていくものではなく、ある時訪れる圧倒的な爆発力によって創造されるものだ。でなければ全ての芸術家にとって、遺作が最高傑作になるのだから」みたいな一節がある。これを目にした時、私はあまりの共感に打ち震えた記憶がある。

そうなのだ。芸術において個人の才能が発揮される期間というのは本当に短い。線香花火のようにか細く美しい炎だから、ヒトはその儚さに感銘を受けるのかもしれない。

付け加えるとすると、才能は「枯渇」するだけではなく、身体状態によって「移行」していくモノなのだと思う。

だから私の青春を飾ってくれたあのバンドも「恋愛が云々で〜」とかいう歌詞はもうやめにして「息子が成長して俺は今、人生の余白の部分を暮らしている」とか「花がかわいいな」とか、そういうことを歌に載っけてくれたら、少なくとも私の胸にはビンビン刺さりますわよ。

取り止めもない記事かもしれないが、大好きなバンドの衰退を目の当たりにし、再起を願い、この記事をしたためた。

今日のお茶は 茶屋すずわの和紅茶。茶葉は発酵の有無によっては、緑茶にも紅茶にも姿を変える。あのバンドもそろそろ紅茶のような甘みを備えたバンドに移行していって欲しいな。

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