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ナル店長 自分の人生とぎょさんネットを振り返る

前回「ぎょさんネットの12年を振り返る」などと言ってから

2年が経ってしまい、

振り返ると14年ということになってしまいました・・・・


いっそのこと人生をざっくり振り返りながら進めていこうと思います。


1968年神奈川県横須賀市に生まれる

両親、祖父母と一つ違いの弟の6人家族。

幼稚園くらいまでの記憶はほぼ無し。

唯一、幼稚園で一つ年下の女の子に帽子を隠されて泣いた覚えがあるくらい。


1975~81年 小学生時代

メンコ、コマ回し、酒フタ集め、プロ野球カード集め(祖父の影響でジャイアンツファン)、スーパーカー、スーパーカー消しゴム(BOXYのボールペンで飛ばして遊ぶ)、ウルトラマン怪獣消しゴム(箱の上で相撲をさせて勝つと相手の怪獣消しゴムがもらえる)、釣り、などにハマりつつ育つ。

TV番組だと、ロボコン、バビル2世、ルパン三世、マジンガーZ、フランダースの犬、釣りキチ三平、8時だよ全員集合、なんかを見ていた。

小学2年くらいからピアノを習い始める。(中学3年まで続ける。ピアノの才能は無いな・・と思う)その影響かガキのくせに音楽はクラッシックをよく聞いていた。

なんと、小学4年生で彼女ができる。転校生の真由美ちゃん、中学1年まで付き合う。(といっても文通とたまに一緒に帰るくらい)

高学年になると小説なども読むようになる。太宰治にハマり有名どころはだいたい読む。好きな作品は「女生徒」「津軽」。

勉強はめちゃめちゃ良くできた。
人生最大のモテ期も早々に迎えてしまう。(1か月で5人くらいに告白される。以後、目立ったモテ期は来ていない。)


1981~83年 中学生時代

時代はツッパリ全盛期、中学校は荒れまくり。
自然な流れである程度グレる。ただしツッパリ、不良、とかではなく、たちの悪いクソガキといった感じ。毎日何かしらのいたずらや悪事をして過ごしていたと思われるが、あまり覚えていないので印象的な事件をいくつか紹介しておく。

偽札バラマキ事件・・・中1の夏休み、段ボールいっぱいの偽札(といっても数枚を除いて札と同じ大きさに切った新聞紙)を地元のデパート屋上からばら撒く。
「大人たちは口では偉そうなこと言って、心ではカネのことしか考えていない。偽札をばら撒いてカネに群がる大人たちの本性を見て笑う」つもりだったが、塊のまま下に落ちてしまう。警備員に見つかって逃げるときの逃げ足が異常に早かったことを今でも友達に笑われる。

このころビートルズを知り、どっぷりハマる。

月謝燃える事件・・・中2の夏、通っていた塾に置いてあった花火を友達に売って小遣いを稼いでいたが、遊びで火をつけたロケット花火が壁に当たって跳ね返り、花火がいっぱいの鞄に侵入、鞄は大爆発。たまたま入っていた月謝(8000円くらいだったと思う)もろとも全焼。しこたま怒られる。

このころブラックバス釣りにハマりルアーを集めるがブラックバスは(今でも)一回も釣り上げたことがない。

他にもいろいろあるけれど、あまり自慢できる内容ではないので、割愛。

そんなこんなで大した勉強もせず受験を迎える。2年くらいまではまあまあ成績が良かったので、中の上くらいの高校に滑り込む。

このころから何となく「サラリーマンにはならない」と考え始める。


1984~87年 高校生時代

バイクの免許(中型)取得、バイクを買う。(GSX400FW、あまり人気がないモデルだったがとても気に入っていた。)どこに行くにもバイクだった。

ギターを始める。同級生2人とビートルズのコピーバンドを組む。(のちにぎょさんネットを一緒に始めるbensan.jp飯田氏がギターボーカル、自分はベースコーラス担当。ちなみにドラムの友達は現在プロで活躍している。)文化祭などで演奏するもあまりウケなかった。

麻雀にドハマりする。学校にはほぼ面子を見つけに行く感じ。面子が揃えばすぐ早退して麻雀漬けの毎日。徹夜は当たり前、足掛け3日麻雀をやり続ける時も・・・腕前はかなり良く、バイトをしないでも小遣いに困った記憶は無いくらいだった。

現在のカミさんと出会う。当時友達の彼女だったが結果奪うことになる。(実際に付き合い始めるのは卒業後、友達には思いっきり殴られる。)

高校の卒業文集には「一番停学が多かった奴ら」としてバンドメンバー3人とも掲載される。

そんなこんなで、高校時代があっという間に終わる。もちろん全く勉強などしたくなかったがまだまだ遊びたかったため浪人して国学院大学に入学する。


1988年~92年 大学時代

大学には自宅から通うが、満員電車と学校のある渋谷になじめず、ほぼ行かなくなる。

地元横須賀で塾の講師のバイトを始める。大学にはほぼ友達がいなかったが、職員の先生や同じバイト仲間と仲良くなり良く遊んだ。(テニスや将棋にハマった。)
生徒にとっては比較的良い先生だったと思う。とりあえず少しでも楽しく成績が上がるよう努力して、実際生徒の成績も上がった。

車の免許取得。最初は先輩からもらったアルト。2台目に中古のアウトビアンキを買う(150万円くらいした、金は父親から借りた)。とても気に入りいつもピカピカにして2年くらい乗っていたが、埼玉で事故(自爆)、廃車となってしまう。3台目は中古のジムニーを10万で買う。

フリーマーケット出店にハマる。当時は数か月に一回くらいのペースで特定の場所に集めて回収されていた「粗大ごみ」の中から使えるものを拾ってきて、磨いたり直したりして売っていた。
バブル絶頂期ということもあったのか、ほんと何でも捨てられていた。現金やテレフォンカード(大量)を見つけたこともあった。1回の出店で40万円くらい売り上げたりして(なにせ元手は0円)、このあたりで商売の楽しさを知ったような気がする。あまりにも変なものばかり売っているので雑誌の取材を受けたりもした。

バブル絶頂期、ディスコ、DCブランド、ワンレンボディコン、な時代だったが、そんなことには目もくれず友達とファミスタを1000試合くらいやったり、相変わらず麻雀をやったり、彼女と旅行に行ったり、あまり世の中の流れとは関係なくダラダラと過ごしているうちに、あっという間に卒業を迎えてしまう。(大学で再会したとても真面目な中学時代の友達のおかげで、何とか卒業できた)
もとより就職する気はなく「ワーキングホリデー」でカナダに行くことを決める。


1992年~93年 カナダ時代

大学卒業後、フリーマーケットや警備員などでお金を貯め(確か50万円くらい貯めたと思う)ワーキングホリデーでカナダ(バンクーバー)へ渡る。
特に何かをしたいわけではなかったが、英語が話せるようになって、何か商売につながることが出来ればよいな~くらいに考えていた。

観光船の船員、路上でのアクセサリー売り(当時好きだった将棋の駒でアクセサリーを作って売っていた。これがなかなか売れた。)などを経て、現地で出会った同じ年の日本人のサクマ君(秋田出身、就職で横須賀に来てトヨタ関係の工場で5年、機械のように働くのに疲れてやはりワーキングホリデーで同時期にカナダに来て出会った。)と友達になり一緒に日本食弁当(といってもおにぎりや、見よう見まねで作った寿司など)のデリバリーを始める。(「Peace Derivery」 という名前にした。) 

少しずつ日本食ブームが始まっていてカナダ人には好評だった。ただ現地の日本人には素人料理をよく注意された。きっとわけのわからない若者ががんばっているのを応援してくれていたのだと思う。今考えると本当にありがとうございました、という気持ちになる。

住んでいたのはバンクーバーの外れ、ベースメント(一軒家の半地下を学生など何人かで借りる、よくあるパターン)を、ナイジェリアからの移民のカン、と隣の州出身のヴィンスとの3人でシェアしていた。家賃は250カナダドルだった。カンとヴィンスはしょっちゅう喧嘩していて、僕が間に入る感じ。ただ基本的にはみんな仲が良かった。

カナダ時代のオレ


一番の思い出は、現地で買ったボロボロのシビック(250ドルで買った)でアメリカを縦断してメキシコまで一人旅したことかな。ヴィンスは「こんなボロボロの日本車でメキシコまでなんて絶対ムリ~」っと帰りはバスで帰ってくるのに50ドル賭けた。
海岸線をシアトル、ポートランド、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴ、ティワナ(メキシコ)、まで、往復約5000Km、1回タイヤがパンクしたくらいで何の故障もなく見事完走!50ドルせしめた。
日本の技術力が誇らしかった。
ちなみにシビックはその後、バンクーバー~ロス~ラスベガス(往復約4000Km)、バンクーバー~バンフ(往復約2000Km)、とドライブしたが、バーストなどのタイヤトラブル以外、全く故障することがなかった。

1年足らずの短いカナダ生活だったけど、内容はめっちゃ濃かった。
このカナダ経験が今の考え方にかなり影響していると思っている。

ビザは延長可能だったが、彼女との約束もあり1年で帰国。


1994年~2003年 ハンバーガーショップ経営時代

帰国後、横須賀にハンバーガーショップ「バスストップ」を開業する。(バス停の目の前だった)カナダで出会って一緒に弁当デリバリーをやっていた友達サクマ君を呼んで二人で開業した。

BS(バスストップ)バーガー

デリバリーも始めて死ぬほど忙しかった時期もあったが、その頃はまだチェーン店以外のハンバーショップは少なく、価格的にチェーン店と競争していたので忙しい割には全然儲からなかった。2年ほど一緒にやってサクマ君は自分で店を出しなんと現在でも店を続けている。

バスストップのメニュー

1997年ごろインターネットが本格的に広がり始める。
「これからの時代はインターネットでしょ!」などと息巻いて、大した技術や知識もないのにIT起業する。(その為、ハンバーガーショップは一時休業する。)内容は「中古車の検索サイトをつくるぞ!」的なもので、中古車屋さんにシステムを売ったり、レンタルしたりしていた。結局1年くらいで仲間割れ、失敗に終わった。ただ、一生懸命やっていたので応援してくれた方々もいた。中途半端でほんと申し訳ない。

その後、ハンバーガショップを再開。デリバリー用のメニューの裏面に売ります買います情報を掲載していいたところ好評だったので、売ります買います情報を中心としたミニコミ誌「タウンホッパー」として独立させる。
地元ネタの特集記事やコラム、連載小説なども掲載し、2000部~3000部位を市内各所に配布したりした。たくさんのお店や会社にスポンサーになっていただいたりしたが、やはり1年くらいで廃刊。ほんとすみません、、、

さらにその後、不用品の引き取り業を始める。(ハンバーガー屋はまた一時休業する。)階段の多い横須賀ではかなり需要があり、食っていける感触を得るが、過酷な現場も多く半年くらいで廃業、、根性が無い、、

12年付き合った彼女と別れる。
前触れはあったのだろうが自分としては全く気が付かなかった。「そういうことだから」の一言であっさりフラれた。(その後5年間の空白を経て復縁、結婚する。)

2000年代に入るころ父親が亡くなる。
昼は会社経営、夜はスナック経営と休んでいるところを見たことがないくらい働いていた。

2002年、同時期に飲食店を始めた友達が亡くなる。急死だった。彼も休む暇なく働いていた。

2人の死は自分の人生に大きな影響を与えたと思う。
店を続けることへの情熱を徐々に失い、別の生き方を模索するようになる。

2003年、店は後輩に譲り「琉球ガラス職人」になることを目指し沖縄に移住を決める。

2003年~07年 沖縄時代

ガラス職人目指して琉球ガラス村に就職するが、職人の空きがなく、何故かグループの飲食店の立ち上げを任され、そのまま2年ほど店長として働く。
(ベトナムにもガラス工場があり、自分自身はベトナムへの赴任を希望していた。)

2005年、琉球ガラス村がイギリスで開催されているガーデンショー(チェルシーフラワーショー)に出場するということで、打ち合わせに来ていた長崎の園芸会社の社長に気に入られ、長崎に連行されそのまま長崎に住むことになる。2006年にチェルシーフラワーショーに参加し銀メダルをいただく。
半年ほど長崎で過ごし、すっかり長崎が気に入ったが琉球ガラス職人になるという目標を見失ってていることに気が付き沖縄に戻る。

その後、沖縄の別の工房で職人の空きがあり見習いとして働き始める。
やっとガラス作りに携われたが、あまりに給料が安く、また先輩の横暴な態度に耐えかね1年くらいで工房を辞める。相変わらず根性は無かった、、

すっかり疲れ果て無一文で横須賀に帰る。

沖縄(長崎)時代は出来事が多すぎて書き始めるときりがない。いろいろな人にお世話になったし、面白事件もたくさん巻き起こしたし、死にそうにもなったが、さらりと。

この沖縄時代にダイバーの友達を通じてギョサンを知り愛用し始める。

2008年 ぎょさんネット 開店

横須賀に戻ったあとは友人が経営していたデザイン会社に拾ってもらう。
ウェブサイトの企画運営、営業、制作などをやっていた。

2008年、沖縄で出会った「ギョサン」についてふと思い出し、友人の飯田氏
と「ぎょさんネット」を立ち上げる(会社とは関係なく個人で)。もちろんこれで食っていくことになるとは思いもせず、気に入ったギョサンをぼちぼち売ってお小遣いになれば良いな~くらいの気持ちだった、

2010年、ギョサンがめざましテレビに取り上げられる。
影響は凄まじく、会社は病気ということで休み発送に追われる。
数か月後、当時の国民的アイドル「嵐」のリーダー大野君がギョサンを気に入ってくれて、TVやラジオで大いに宣伝してくれる。
もうこうなると注文は止まらず、在庫が空っぽになるまで売れに売れた。

と、こんな流れで2010年末会社を辞め「ぎょさんネット」1本でやっていくこととなる。

それまで自宅(マンション5階、エレベーター無し)で運営していたが、1梱包50㎏近くあるギョサンを5階まで運んでもらうのが申し訳なさ過ぎてボロアパートを事務所として借りる。

オリジナルプリントサービスなども始め、なんやかんやで少しずつ食えるようになる。

事務所を葉山に移し本格的にギョサンにのめり込む。


2013年~2018年くらい 

2013年くらいからは、Amazon、ヤフーショッピングなどにも出店してなんとなく売り上げをキープしていたものの、冬の間はヒマだったのと、まだまだ「ギョサン」1本ではやっていける自信もなく、いろいろ手を出しては失敗したりしてます。


現在の会社名である「まるた商店」のサイトがまだあるんで、そちらを見てみてください。(現在全く機能しておりません、、)


この時期もギョサンに対する情熱は増すばかりで、ついには「新しい形のギョサンを自分で設計したい!」ということで、「カリプソTYPE-T」の設計を始める。(その後5年の月日を費やして2020年に「カリプソTYPE-T」メンズ、2023年にはレディスがデビューします。ちなみに「T」はTOWNでも履いて欲しいという希望を込めた「T」です。)

2018年ころからは「手染めギョサン」を製作し始める。

琉球ガラス職人にはなれなかったが、手染めギョサン職人にはなれる!
と、モチベーションが上がりまくった。ただ、1足つくるのにもかなりの時間がかかり、夏の間の忙しさと製作を両立するのは至難の業だった。

ベンサン.jpの飯田君と二人旅中~(約10年ぐらい前です)

2018年~2023年 マキさん加入

2018年、現在も大活躍しているマキさんがぎょさんネットに加入してくれる。マキさんとは沖縄時代に一度会っていた。何かのパーティーで同じ横須賀出身ということで紹介され、なんと同じ高校出身でびっくりした。

マキさんは、IT会社勤務、雑誌編集者、ライター、沖縄で泡盛販売店のネットショップ担当を経て(沖縄移住期間15年!)、横須賀に帰ってきたタイミングで「なんか沖縄で会った変な奴がネットショップをやっている」と噂を聞いて連絡してくれた。

マキさんはちょっとスゴかった。あれよあれよという間にぎょさんネットをどんどん良くしてくれた。自分もやりたかった手染めギョサンに打ち込む時間ができて「職人」といっても恥ずかしくないくらいになれたと思う。

マキさんのおかげで売り上げも2倍、3倍、と伸び、2023年には、マキさんの友達のトモコさんも加入してさらに今後もがんばっていけそうです。


っと、ここまで長くなりましたが、ぎょさんネット、及び、ナル店長の今までを振り返ってみました。

よくもまあ、こんなテキトーな人間が何とかここまでやってこれたもんだと思います。それもこれも、関わってくれた「人」と「運」に恵まれたと感じております。「人」と「運」との関係を良好に保つコツは少しずつわかってきたような気がします。


これからも、ギョサンを少しでも世に広めるべく一生懸命がんばっていくつもりですので、今後とも、ぎょさんネットをよろしくお願いいたします!


2023年12月 

ナル店長こと麻生成利


【募集】

三浦郡葉山町近辺にお住まいでギョサンが好きな方、ナル店長が弟子を募集しています!
このブログを読んで、ナル店長と一緒にギョサンを売りたい!と思った方はぎょさんネットのお問い合わせフォームよりご連絡くださいね。
よろしくお願いします!

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