短歌があったから

 週末ごろから、さらさらした、横に流れていく雨が続いてる。雨にもいろいろある。季節もよるのかな。

 これから、誰に話すわけでもなく最近気づいたことを自分の頭を整理するために書きたいと思います。

 10代になったころから、小説を書き始めていた。自分が勝手にそれを小説と呼んでいたんだけど。書くことは夢のように楽しく、私の小説を面白いとか、私の文章が好きだと言ってもらえたことは、私の救いになっている。多分、当時感じていた以上に、今の自分を支えていると思う。

 大学生になって、短歌サークルに入った。そこから、「表現するなら短歌」という前提が、自分の中に居座るようになった。うまくできもしないのに。でも居座ってるもんだから、書くことになっても当然うまくできなくて、しっくり来なくて、結局何も書かなくなっていった。小説のことを思い出すことも減っていった。
 社会人になって、いっちょ前にやってみたいと思える仕事ができたり、結婚したり、創作との距離はどんどん開いていく。ダイエットや、イケメンとか、そんなことばかり頭にあった。それはそれで楽しいから「もうこのままでいいや」って思ってた。でもどこか埋まらない溝があった。やっぱり書くっていう、自分の一部がなくなっていたのかな。大人になって変わった部分もあると思うけど、それだけじゃないはず。

 だんだんと「何でもいいから書きたい」という、「良いものを生み出したい」以前の、もっと簡単で身近で居心地のいい感覚すらなくなっていたと思う。「何でもいいから書きたい」以前なら、「空想して不思議な世界に浸りたい」かな。短歌のせいにするなよって感じやけど、自分なりに築いてきた創作との付き合い方を奪われたのがつらかったから、八つ当たりみたいな考え方になっちゃう。でも、そんなに短歌に支配されたのは、短歌を好きになって、うまくなって、自分のものにしたかったからだと思う。自分だけにしか書けないものを発表して、多くの人に見てもらいたいという気持ちを刺激されてたんだと思う。これは小説を書いている頃にも持っていた悩みの一つだ。書くことを楽しむことと、すごい存在だと思われたいことがぶつかっちゃう。小説は一人だったけど、短歌は周りの人がいるから、余計そういう苦しみを感じることが多かった気がする。

 これまでは、自分の創作のために何かを吸収するつもりで映画や小説に触れてきたけど、そういう力もだんだん弱くなっている。

 だから、短歌のことはちょっとだけなかったことにする。今からでも自分のやりやすい創作に舵を切り直して、また書くことを再開できたらいいなと思う。そうすれば、いなくなってた自分を取り戻せるかもしれない。

 冒頭の通りこれは自分のために書いているし、ただの気の持ちようの問題でしかない。短歌はもう二度とやりませんっていうことではないよ。どんな縁があるかわからないしね。それにわたしには、特急白虎があるから。

 本当は、「短歌さえなければ」ってタイトルにしようと思ってた(笑)でも、それは言いすぎだし、短歌を通して人生を支えてくれるような友達ができたし。こういう言葉の選択ができるようになったのも短歌があったからかも。強い言葉を乱暴にでも使うことが自分の味だと思っていたから。

 試しに、ほんの少しだけ紙のノートに文章を書いてみた。一行だけでもすごく迷って、すごく楽しかった。これが私が書いたものか!って。こうやって出勤前に、そして仕事から帰ってきて、パソコンに向かっていることも、書きかけの文章を眺めているだけでもうれしい。

 ちょっとだけ近況報告。
 去年退職してそこからは、資格の勉強と文字通訳のボランティアをちょこちょこするくらいだったけど、今年4月から固定の仕事が始まった。今勉強している資格に関係のある分野の仕事なので、すごく興味深く働いている。半年間の契約なので、契約満了後また半年ほど勉強して資格試験を受けるという、理想的なスケジュール。職場の方も親切で、本当にありがたい。
 前職は、業界は同じだけど現場での業務が多い職場だったから、ジャージみたいな恰好で働いていたけど、今はオフィスカジュアルで、お化粧して、少しかかとの高い靴を履いて働いている。とっても気分が上がる!おしゃれして働けるって、素敵だな。そんなケバケバじゃないつもりだけど(笑)

 もう少し書こうかなと思ってたけど、ちょっと疲れちゃったのでここで終わります。

 これから観る映画や読む小説、訪れる場所がまた違うものに見えるかもしれないと思うと、わくわくするよ。


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